裏山の道草山の栗もそろそろ終わりを迎えている。もう少し草刈りをやればよかったがこのままになりそうだ。ということは栗を見つけるには時間がかかる、見つけにくいということとなる。最近は、イガの図体は大きいが中身が少ないものの一粒が大きくなっている。本来なら、イガのなかに2個ほどの栗があるはずなのに1個しかないというのが多い。人間と同じで樹も老齢になると生産活動が衰微していくということか、それがいのちの宿命、有限であるということなんだろうか。
同時に、イノシシも懸命に栗を食べに来ている。今朝はずいぶん食べたようでこちらの取り分が減ってしまった。話が違うじゃないか。もう少し人間の都合も考えてほしいもんだ。それにしても、上手に栗を食べている。栗を食べたイノシシは肉が旨いのは言うまでもないけど…。
鉱山学者の山口青邨(セイソン)が詠んだ「栗干して いまこそ山家(ヤマヤ)
ゆたかなれ」という俳句が胸に沁みる。東大教授でもあった青邨の句には出身の岩手盛岡の匂いが漂う。さらに、「いのちの森 栗をひろひぬ 人遠く」も共感できる。縄文経済のわが家にとっては、「拾う」とか「見つける」という行為は主要な生活基盤なのだ。これを失うと自然への感謝とか畏敬とかが人間から削除されていく。
若いころ共感した若山牧水の歌にも「飲む湯にも 焚き火のけむり 匂いたる 山家の冬の夕餉なりけり」は、いまになってこそ「ほんとうにそうだなー」という実感がある。近ごろの文学も音楽もこうした生活の匂いが削除されているものが圧倒的。時代は進歩しているのか、後退しているのか、それともオイラが取り残されているのか、それを問いながらまずはきょうも生きている。