田舎生活をしていると、時間はたっぷりあり、読書も好きなだけできる。今は、松永安左エ門著作集を読み返している。松永安左エ門は戦後の電力民営化に辣腕を揮い、戦後の高度経済成長の基礎を作った人だが、随筆家、茶人、登山家、歴史家、遊び人どれをとっても抜きん出た人。大正十一年、拠点の九州電灯鉄道(九電の前身)と名古屋の名古屋電灯と合併、この名古屋電灯の建て直しの思い出をつづった記事、印象に。この名古屋電灯建て直しと同じスタンスで、より規模の大きい日本の戦後の電力業民営化を成功に導いたと気づく。東京電力はじめ電力業界のほころびが指摘されている昨今、松永安左エ門のこうした見識と行動力には学ぶところが大きい。松永安左エ門89歳で書いた簡潔な文章に驚く。
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松永安左エ門著作集(五月書房)第一巻 p424 昭和39年日経新聞掲載 私の履歴書より
九州電灯鉄道と関西電気(名古屋電灯)が合併したのが大正十年の十一月で、それからの二、三年間は猛烈に忙しかった。・・・合併直後は関西電気の名前を踏襲し、広く社名を公募して決めたのが「東邦」で、正確には東邦電力は大正十一年に始まる。・・そもそも名古屋電灯の前身は旧藩時代の失業藩士を救済する目的で企てられた事業で、日本では古い歴史を持つ電灯会社であった。欧州大戦のころから電気の需要は動力用を中心に急激にのび、供給不足がちであったが名古屋地方では特にそれがひどく、さらに故障、停電が連日で市民の憤激を買っていた。・・・・
そんな状態で東邦電力が生まれるそうそう第一に手を着けねばならなかったのが、中京地方における電気事業の建て直しだった。経営内容もむろんだが、名古屋に乗り込んでみてまず驚いたのは会社が体をなしていなかったことだった。
広小路にあった旧名古屋電灯の事務所は乱雑であった。電工が使う自転車はどこにでも勝手に乗り捨ててあり、倉庫は廃品と新品がゴッチャになっている。経理は雑でサービスどころではなく、まず事務所の整理、整頓から始めねばならなかった。自分で写真をとって回り、実物を示して改善を要望した。便所には男女の区別をつけ、白壁に塗り替えるといったところから着手した。
困ったのは停電である。多いうえに、故障するとなかなかなおらない。需要家が怒るのも当然だった。会社の配電室にベッドを持ち込んで、実情をみるとともに修繕作業も指揮した。同時に原因を調べたが、配送電線がひどかった。
博多ですら市内配線は三千五百ボルトになっているのに、人口が三、四倍もある名古屋でなお千五百ボルト、容量が小さく間に合っていない。そこで配電線の昇圧をはかり、一挙に五千ボルトに引き上げた。この工事を全線にやったのだから、資金も膨大なものになった。
一方で大口需要先の実業家、県や市の役所筋、有力者を歴訪して、改善について了解を求め約束して回った。桃介(福沢桃介、名古屋電灯の前社長)に対して憤慨していた人たちも、最初は同類が現れたのだからあまり好意を示さなかったが、いつとはなく打ち解けてきた。桃介排撃の急先鋒の一人青木鎌太郎(憲政会代議士)などはのちには熱心な私のシンパになってくれた。しかし停電が解消し、電圧が正常になり、信用を回復するまでには相当な努力が必要だったが、禍が転じて福となり、私にとってありがたい試練となったと思う。
なぜこんな状態だったか。それは桃介の方針に問題がある。人物のスケールが大きいだけに、細かい仕事には向かない。大同電力が長くそうであったように彼は水力開発に興味があり、一軒一軒に電気をうるようなことは不得手で、卸売りを事業の中心に考えていた。どちらかといえば直接の供給先を持たない主義で、その点が私と違っていた。
東邦電力になってしばらくして私は名古屋に三万五千キロ二台という当時日本最大ユニットの火力を設置した。これはごく最近まで稼動していたが、建設した頃は名古屋地方、岡崎地方を含めて東邦の総ロード(電力供給力)が約八万キロ、それに匹敵する設備を一挙にふやしたことだった。この火力設備は当時のニューヨークタイムズに大きくとりあげられた。極東の中都市に米国でもない最新設備がみられるとは思いがけなかったと報じていたが、そのときそのときの最高のものを設置するのが私の流儀で、これはいまでも同じ考えである。
稼働率がよければコストはいちばん安いのだから、問題はロードを増やすことである。そのためには中小企業に電力の使い方をPRしたり、家庭電気機器の普及をはかったりした。電気が安ければ需要はふえる。そこでさらに能率のいい設備をする。いわゆる良循環で基幹産業はこうあるべきだが、これが電気事業にたずさわって以来の私の考えだ。
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松永安左エ門著作集(五月書房)第一巻 p424 昭和39年日経新聞掲載 私の履歴書より
九州電灯鉄道と関西電気(名古屋電灯)が合併したのが大正十年の十一月で、それからの二、三年間は猛烈に忙しかった。・・・合併直後は関西電気の名前を踏襲し、広く社名を公募して決めたのが「東邦」で、正確には東邦電力は大正十一年に始まる。・・そもそも名古屋電灯の前身は旧藩時代の失業藩士を救済する目的で企てられた事業で、日本では古い歴史を持つ電灯会社であった。欧州大戦のころから電気の需要は動力用を中心に急激にのび、供給不足がちであったが名古屋地方では特にそれがひどく、さらに故障、停電が連日で市民の憤激を買っていた。・・・・
そんな状態で東邦電力が生まれるそうそう第一に手を着けねばならなかったのが、中京地方における電気事業の建て直しだった。経営内容もむろんだが、名古屋に乗り込んでみてまず驚いたのは会社が体をなしていなかったことだった。
広小路にあった旧名古屋電灯の事務所は乱雑であった。電工が使う自転車はどこにでも勝手に乗り捨ててあり、倉庫は廃品と新品がゴッチャになっている。経理は雑でサービスどころではなく、まず事務所の整理、整頓から始めねばならなかった。自分で写真をとって回り、実物を示して改善を要望した。便所には男女の区別をつけ、白壁に塗り替えるといったところから着手した。
困ったのは停電である。多いうえに、故障するとなかなかなおらない。需要家が怒るのも当然だった。会社の配電室にベッドを持ち込んで、実情をみるとともに修繕作業も指揮した。同時に原因を調べたが、配送電線がひどかった。
博多ですら市内配線は三千五百ボルトになっているのに、人口が三、四倍もある名古屋でなお千五百ボルト、容量が小さく間に合っていない。そこで配電線の昇圧をはかり、一挙に五千ボルトに引き上げた。この工事を全線にやったのだから、資金も膨大なものになった。
一方で大口需要先の実業家、県や市の役所筋、有力者を歴訪して、改善について了解を求め約束して回った。桃介(福沢桃介、名古屋電灯の前社長)に対して憤慨していた人たちも、最初は同類が現れたのだからあまり好意を示さなかったが、いつとはなく打ち解けてきた。桃介排撃の急先鋒の一人青木鎌太郎(憲政会代議士)などはのちには熱心な私のシンパになってくれた。しかし停電が解消し、電圧が正常になり、信用を回復するまでには相当な努力が必要だったが、禍が転じて福となり、私にとってありがたい試練となったと思う。
なぜこんな状態だったか。それは桃介の方針に問題がある。人物のスケールが大きいだけに、細かい仕事には向かない。大同電力が長くそうであったように彼は水力開発に興味があり、一軒一軒に電気をうるようなことは不得手で、卸売りを事業の中心に考えていた。どちらかといえば直接の供給先を持たない主義で、その点が私と違っていた。
東邦電力になってしばらくして私は名古屋に三万五千キロ二台という当時日本最大ユニットの火力を設置した。これはごく最近まで稼動していたが、建設した頃は名古屋地方、岡崎地方を含めて東邦の総ロード(電力供給力)が約八万キロ、それに匹敵する設備を一挙にふやしたことだった。この火力設備は当時のニューヨークタイムズに大きくとりあげられた。極東の中都市に米国でもない最新設備がみられるとは思いがけなかったと報じていたが、そのときそのときの最高のものを設置するのが私の流儀で、これはいまでも同じ考えである。
稼働率がよければコストはいちばん安いのだから、問題はロードを増やすことである。そのためには中小企業に電力の使い方をPRしたり、家庭電気機器の普及をはかったりした。電気が安ければ需要はふえる。そこでさらに能率のいい設備をする。いわゆる良循環で基幹産業はこうあるべきだが、これが電気事業にたずさわって以来の私の考えだ。
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