MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

脚本は技術革新に追いつくのか?

2008-06-30 20:09:54 | Weblog

【コラム】 名作映画シリーズの続編がなぜ今、続々公開されるの?(R25) - goo ニュース

 基本的にアクション映画というものの内容はそれほど大差がないのであるし、

むしろ主人公は観客に親しみがあった方が良いからこのように名作映画シリーズの

続編が撮られるのであろう。勿論年老いているのは主人公たちだけではなく当時の

作品を観た観客たちも年老いており、それに加えて若者の観客もある程度見込める

からネタ不足という面があるのではあっても続編が作られることは悪いことではない

と思う。ただここに書かれている続編で個人的に良かったと思うのは『ダイ・ハード』

だけである。 


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『特集:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2008』 100点

2008-06-30 19:44:20 | goo映画レビュー

特集:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー映画祭2008

-年/-

ネタバレ

いまだに見出されていない天才

総合★★★★★ 100

ストーリー ☆☆☆☆☆0点

キャスト ☆☆☆☆☆0点

演出 ☆☆☆☆☆0点

ビジュアル ☆☆☆☆☆0点

音楽 ☆☆☆☆☆0点

 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーは1969年の長編第デビュー作の『愛は死より冷酷』から1982年に37歳で急死する13年間で40本以上の監督作品を作りだした。常識で考えれば粗製濫造ではないのかと思われるが、驚くべきことに作品ごとに最も有効と思われる演出を発明しながら撮り続けていたことが今回の特集で分かった。ここに字数制限内で書きとめておきたい。

1.『出稼ぎ野郎』
 映像に面白みがないのは若者たちがただそれぞれが抱えている問題に対して愚痴を言っているだけだからなのだが、演出は計算し尽くされている。例えば定期的に2人の登場人物がBGMが流れる中前進して歩いてきたり、エーリヒが横になっている前でマリーが座っている映像から男女が裸で抱き合っている映像の次に今度はマリーが横になっている前でエーリヒが座っている映像をつなげている。つまりこの演出はクライマックスで4人の男たちが自分たちの日ごろの鬱憤を晴らすために何の関係も無いギリシャから来ていた労働者をよそ者という理由だけで暴行するシーンを際立たせる演出なのである。
2.『悪の神々』
 この映画の本当の怖さは登場人物の間に心の交流が全く感じられないところにある。例えば刑務所から出所した主人公のフランツがカフェバーに入るとき最初は警備員に止められるのだが、再び入ろうとしたらすんなり入れてしまい警備員も彼を追いかけることなくそのまま見逃してしまう。スーパーを襲撃したフランツとギュンターは警官に撃たれるのだが、フランツは死んだ後も撃たれるのに、ギュンターは追われない。これらの登場人物の他者に対する熱意のなさが怖いのである。
3.『何故R氏は発作的に人を殺したか?』
 テレビを見ていたラープ氏が何故突然燭台を持ち出して妻の友人を撲殺し、続いて妻を撲殺し、最後に別の部屋にいた息子を殺したのかは分からない。この作品は終始ドキュメンタリー形式で撮られているため、突出したシーンが存在しないからであり、それが監督の狙いなのである。
4.『聖なるパン助に注意』
 映画監督ジェフが撮ろうしている映画は暴力の告発についてのものである。しかし映画監督は‘暴力’を行使しなければ映画は作れないであろう。最初は出演者もスタッフも監督の言うことを聞かないのだが、最後になってようやく制作が始まる。最後のジェフの不敵な笑みはそのことを暗示している。勿論‘暴力’の背後にはお金が存在する。
5.『不安と魂』
 初老の未亡人エミは若いモロッコ人労働者アリと知り合い結婚するが、周囲の人間の猛烈な反感を買ってしまう。しかしエミが隣人に地下倉庫を貸してあげたり、息子に頼まれて孫の面倒を見ることにしたり、仕事先で給料アップの交渉を頼まれたりすることで周囲の反感がなくなる。つまり普通の人間関係は‘経済効率’でどうにでもなるのであるが、アリとの愛の関係だけは思い通りにはならない。ラストシーンでアリはストレスのよる胃潰瘍で入院してしまう。医師からは治っても半年後にはまた入院することになると言われる。愛とは胃潰瘍のようなものなのである。
6.『マルタ』
 マルタは父親を理想の男性としており、‘マッチョ’が嫌いなため部屋に入ってきた髭を蓄えたアラブ人を嫌い、同じように髭を蓄えた上司の求婚を彼女は断ってしまう。そして自分の父親に似たヘルムートと結婚するが、彼女の母親は反対する。それは母親がマルタを手放したくないのではなく、ヘルムートのマルタの暴力的な抱き方を見たり、マルタの父親も実は‘マッチョ’であったからであり、それは母親が持っていた父親の顔写真に髭が書き加えられていたことから分かる。気が付かれないうちに家庭の中に潜んでくる暴力が描かれている。
7.『哀れなボルヴィーザー』
 『マルタ』とは対照的にこの作品は‘マッチョ’に惹かれる女性が描かれている。田舎町の駅長であるボルヴィーザーは醸造業主の娘であるハニーと結婚するが、妻からボルヴィーザーは子供を作ることを禁止されお酒を飲むことも禁止されるが、お金持ちの妻が出資して店を出すとそこへ飲みに行くように言われて、とにかく妻の言いなりである。しかしハニーは実は‘マッチョ’が好きなことは彼女の浮気相手が2人とも髭を蓄えていることがラストシーンで2人が並んで映ったことで確認できる。ボルヴィーザーは裁判において事前に教えられた証言を変えたりと抵抗を見せたりもするのではあるが、最後は妻の離婚請求に同意してしまうのである。
8.『エフィー・ブリースト』
 不思議な作風である。結婚や出産など普通この種の映画で一番細かく描かれる部分をナレーションで済ませてしまっている。その上字幕を読むのも追いつかないほどの量のダイアローグから察して、これは観念に囚われてしまった人々誰もがエフィーを愛せないということが描かれている。彼女を愛せたのは彼女の墓石にいつまでも寄り添う観念とは無縁の飼い犬のロロだけなのである。
9.『キュスタース小母さんの昇天』
 他人の不幸を利用して‘力’を得ようとする闘争劇である。ラストでは事件に巻き込まれて撃ち殺されたキュスタース婦人を抱き上げたコリナはカメラに向かってポーズを取ったらしいのだが、ラストが字幕のみの説明で終わってしまっているのはあくまでも演出なのか予算不足だったのかがよく分からなかった。
10.『少しの愛だけでも』
 主人公のペーターは勤勉であり人並の生活をしようとするのだが、彼がいくら努力しても彼の暮らしは彼の考える‘人並’にはならない。だから働かないで金を無心する自分の息子を殴る飲食店主を見た時に発作的に飲食店主を殺した理由を代弁するならば「一生懸命働いていたって生活は成り立たない。どうせ金は金持ち(父親の世代)のところに集まるようになっているんだ」。
11.『悪魔のやから』
 徹底的に悪に手を染めるからこそ素晴しい芸術作品が生まれるというアイロニーが描かれている。ラストシーンの次々と繰り出される悪のどんでん返しの末、全てがお芝居であったというオチは‘悪の底なしさ’を暗示している。私たちは結局ヴァルター・クランツの弟、エルンストが飼っているハエに過ぎない。
12.『デスペア』
 観客は主人公のフルネームをラストシーンで刑事に呼びかけられる時に初めて知る。彼の名は「ヘルマン・ヘルマン」。つまりドッペルゲンガーに囚われていた主人公がその分身に体を乗っ取られているという暗示である。その分身に誰にでもばれるような‘完全犯罪’を主人公は起こさせられ、主従の逆転を目論まれるのである。だからラストシーンで彼は自分は‘役者’であり「I'm coming out」と言って‘主犯’が出てこようとするのであるが、もはやどちらが本物なのかは彼自身にも分からない。
13.『第三世代』
 結局権力というのは‘固有名詞’に属するということであろう。この作品には『意思と表象としての世界』のショーペンハウアー、タルコフスキー、ニーチェなど固有名詞が頻出する。若いテロリストたちはみんな姿を変えて名前を変えて行動し、それでも次々と殺されてしまうのとは対照的に、誘拐されているにもかかわらず実業家P.J.ルルツは最後まで笑顔で自分の名前を誇らしげに名乗るシーンが印象的である。


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