特集:ジャン=シャルル・フィトゥッシ監督6作品集
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今後が期待される映像作家
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『私は死んでいない(Je ne suis pas morte)』は脳溢血で死に際にいる年老いた女性のタイトル通りのモノローグから始まる。彼女の魂が自分の体から抜け出して、子供たちや孫の様子を見に行くような感じで描かれ、最後に女性の葬儀のシーンで終わる。
作品全体の印象はエリック・ロメールの作品にタルコフスキー的映像の‘詐術’を加えているようなものである。『土星神(Le Dieu Saturne)』ではダイアローグに重点が置かれ過ぎていて映像に対する工夫がいまひとつ感じられなかったが、『私は死んでいない』では映像の出来が良くなっている。但しストーリーは愛の不可能性に関する哲学的な内容なのでゴダールレベルに分かり難い。
ラストシーンの娘の10分くらいに及ぶカメラ目線が奇を衒ったものでないとするのならば、その前に出てきた主人公を迎えに来た死に神の後に出てきた少女のカメラ目線が観客に対して主人公と同じ立ち位置にいることを錯覚させるのに対して、娘のカメラ目線は観客を現実に引き戻す効果を狙ったものだと思われる。(監督はポール・ヴァーホーヴェン監督が好きなのか?)
『ローマ王のための夜想曲(Nocturnes pour le roi de Rome)』は携帯電話で撮影された作品である。良く言えばゲルハルト・リヒターやモーリス・ドニの絵画作品を想起させることもあるが、一番印象に残っているシーンが引用されていた『無防備都市』のアンナ・マニャーニなのが残念である。この作品で問題があるとするならば、主人公でモノローグを語り続ける目の不自由な老作曲家が最後まで画面の中に登場しないことにある。体の一部でも出せばモノローグと映像が結びついたはずなのだが、結局映像とモノローグが結びつかないため、ストーリーに力が感じられない。「物語的な意味性の約束ごとから解放」する試みという説明には個人的には素直には肯けない。それならばマルグリット・デュラス以上の野心が必要であろう。フィルムで撮影をした方が監督のアイデアがより良く活かせるように思う。
星野監督に来年のWBC代表監督の要請(サンケイスポーツ) - goo ニュース
一体どの関係者が星野に来年のWBCの代表監督を要請しているのだろうか?
その関係者は今回の北京オリンピックの野球の試合を本当に見たのだろうか?
今回メダルが取れなかった原因は星野の采配ミスである。星野はピッチャー出身で
ありながらピッチャーの代え時を間違えていた。その上失策を連発していたGG佐藤
を何故3位決定戦でも起用したのかが理解に苦しむ。既に相当に心が折れていた
佐藤があのようなプレイをしてしまうだろうということは誰でも予想できることである。
つまり今回の日本の敗因は星野の熱い精神論に選手がついていけなかったのだ。
だからまず頭を丸めるのはダルビッシュではなく星野なのだと思う。