六度目の3月11日、東京は明るい陽射しに恵まれた朝でした。
六年前も晴れた朝でした。あの朝、誰も予想しなかった大震災と大津波。本当の災いは、天災ではなかったと知る日がくるなんて…。
あの時から失われた生命と暮らしに、重ねてお見舞い申し上げます。あの日のままにいて、苦しむ方に、せめて暖かい陽射しが届くようにと、お祈り申し上げます。
六年たって避難解除になったとして、そこに戻る決断ができる方が、どれだけいるだろうか? 生まれた子供が小学生になるほどの時間と思えば、別な暮らしができてしまったことは想像できます。
避難先と頼む場所での、フクシマの子供達への卑劣な暴力は、ご家族や同じ境遇の方々を、どれ程苦しめたか。
死なないで生きて、話してくれた少年の勇気に、涙し、拍手する大人も沢山いるって、伝えたいと思います。
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震災で命の大切さを知った君は、きっと素敵な大人になる。弱い者に石を投げて、自分の憂さ晴らしをする者、群れてやれば自分は悪くないって思う者は、実は沢山います。君はそうしない人になるはず。一人一人が生きている価値ある存在なのです。命に勝るものはない。手を差し伸べる人間の強さをもって、どうぞ生きぬいてください。
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避難先での生活を切り上げて、帰宅困難地域の周辺に、移り住む人達も増えたとききました。
原発の補償金で、土地を買い漁って新築して、飲み屋に通って、気楽なもんだ。他所もんが土地を乗っ取って、違う言葉で大声で話していると不愉快だ……と、本来、その土地に住む人が苦々しく思っている、との話を聞くこともありました。
同じ県内でさえも、わかり会うことの難しさが、時間経過で生じていると聞くと、胸が苦しくなります。
経過支援に関わる度に、「完全な余所者だけど、居なくならない協力者」には、ズキリッとした言葉がこぼされることがあるのです。当事者だけでなく、当事者の周囲の戸惑う声も、また、すくいあげる方法はないものでしょうか。
時間経過と共に、工事で補えない傷が拡がっているようで、余所者であっても切なくなります……。
「絆」という言葉が日本中に広がった年のバングルは、今日なお、私の手元にあります。アレ(メルトダウンした放射性物質)が封じ込められる見通しがつく日まで、私を励ます言葉です。
被災地、復興、原発避難、帰還困難地区……他人事に聞こえる言葉達……。
いいえ!
自分があそこに暮らしていたなら……そう思う創造力があれば、社会はもっと変わるはずです。そう信じています。
苦しむ人には忘れて欲しい…。ですが、私達は忘れないでいましょう。難しいけれども。
2017/03/11 過労死予備群 慎書
★追記します
★今日、Y!で出来ること!
【本日、「3.11」というキーワードで検索された方おひとりにつき10円が、Yahoo!検索から東北復興のために寄付されます。】
※※※ web文面からコピーしました。ありがとう! ※※※