トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

あえなく失敗

2011-01-10 | 今日は真面目に

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 拠点の上り口にある桜が昨年になり完全に枯れ死した。子どもたちが入り込む原の末端に生えていたのだが、枯れ枝の落下も見られるようになって、除伐することにした。斜面に生えた自然樹のためか4本立ちで、どれもが斜めに立ち上がっている。

 山側へ傾斜していた3本は難なく切り倒したが、谷側に傾いているのが主幹で、重心の方向に4m程度の樹高に育ったエノキがあって、これを傷つけたくないのでロープをかけて4人で引いていたのだが、樹木の重さにはかなわなかった。

 心配したとおりエノキの上に倒れて掛かってしまった。ついでに主枝も一本折り取ってしまう、あえなく失敗の巻。樹の状態がよければ平茸の原木にしようかと考えていたのだが、サルノコシカケの菌糸が中心部まで入り込んでいたから、クワガタやタマムシの住処にせざるを得ない状態だった。「棚ボタ」にはならなかったが、それはそれで虫たちには「お年玉」だろう。ちなみに8年前の開花は写真のようだった。

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敷き落葉

2011-01-10 | 感じるままの回り道

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 「ノバラよノバラ蝦夷地のノバラ」と歌いだす歌があるが、さしずめ「落葉よ落葉」と歌いだしたい風景だった。落葉樹の葉はあらかた落ちて、樹の下は落葉の絨毯になっている。大抵は風に吹き飛ばされてしまうか吹き溜まりになるかなのだけど、この木の下は風が通らないから綺麗なものだ。見ていても心和むのは落葉と「同類」のせいかもしれないし、田舎者の美的感覚かも知れない。

 市街地で「落葉が汚い。掃除に手間がかかる」など、苦情の種になって樹が処分されるのは良く見聞きすることだけれど、セミやカエルの鳴き声が「うるさい」から駆除して欲しいという感覚も理解できない感覚の一つである。喧騒と表現することはあっても煩わしい音ではないのだ。どっぷりと浸っていると幸せな心地さえしてくる。

 落葉にしろカエルやセミの大合唱にしろ、「風情を楽しむ」事が出来るのは生育環境に由来するのだろうか。そうだとすると「貧しかったけれど豊かな環境で生まれ育った」と思わざるを得ない。今も「貧しくて豊かな閑居」である事には変わりはないのだけれど…。