トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

今日のトンボ「手に出来るのはこんな時」

2020-08-31 | 小父のお隣さん
 泥水池3の除草中に水面に浮いているトンボがあった。水面に落ちて数日以上は経過していると思える傷み方だ。腹節に僅かに認められる赤銅色から「マルタンヤンマ」だと思って洗って確かめようとしたのだが、掌で掬い上げても破損の恐れがあった。ここは慎重を期して車の荷室に放り込んであった鉢底ネットを取りに戻り救い上げたのだ。

 流水では更に傷める可能性があるから、頭部のタオルに噴霧して気化冷却を期待するスプレーの用意もあったのでスプレーしながら汚れを落としてみた。翅色は着色していたので「当たり!」と喜んでみたものの腹節の色彩は芳しくない。それでも翅色と腹節の赤銅色から「マルタンヤンマ」と決めたのだった。他人に教える訳でも無し「思い込み」で一向にかまわないのである。
 たとえ認識不足で誤認であったとしても事実である必要もなく実物だと思う「喜び」こそが明日の英気を養ってくれる。小生にすれば「千歳一遇」の機会なのである。まあ「嘘も方便」病ん坊、認亡、頓ボで構わん。
 朱里エイコの「愛は旅びと」の一節、「どこまでがあなたで どこまでがあたしか ふたりともわからなくなる」なんて歌詞があるがさしずめ「どこまでがさぎょうで どこまでがあそびか おじいにはわからなくなる」と歌ってみる。まだ歌えたから耄碌は少ない、はずだ。

 さて子細に観察しようにも傷みが進んでいて胸部の色彩は分かりにくい。それでも他の種も含めてだが実物を手にするなどシーズンにあるかないかの事なのである。そんなことで作業継続は不可能、横道にそれてしばらく遊んだのだ。もう一生懸命作業を行うような歳でも無し「二度童」であるがゆえに「童の遊びは仕事である!」。
 それにしても我が世の春、いいえ、我が世の夏を謳歌していた虫たちの亡骸が目につく頃に入ったのだなあ。

             

コナギの排除

2020-08-31 | 水辺環境の保全
 棚田部と上棚の二つ池にコナギが繁茂してきた。葦もコロニーを形成しつつ面積を拡大中である。カサスゲもそうなのだが適期に抜根除去しておかないと晩秋にはさらに侵出著しく、その上、抜くのに多大な労力を要するのだ。まだ残暑厳しく真夏日の中、水域に脚を入れているとはいえ涼しさは微塵も無い。抜き取るだけで汗が滴るし陸に投げるだけで衣服は泥だらけである。
 だからと言って見ているだけで片付く訳も無く、先送りすればさらに作業量は増え、抜く労働強度は高まるのだ。まあ、何事も我慢とあきらめが肝心、の見本みたいな水商売である。先達は申して居る「夏草に追いつく草取りは無し」いいや「草取り暇なし」だったか・・・。

 発生量が多く除草2回目の棚田部はまだ成長期のコナギが多いのだけれど、小さくて数が増えた事で手取りが煩わしくなった。閃きでコナギ刈り鋸を作ったものの妄想倒れに終わり、結局は造林鎌で水底で根と切り離し浮いた葉茎をガーデンレーキで掬い取り陸にあげる。これはコナギが小さいから数は多くても重さは少なく効果があった。手で抜き取るより数倍も早く終わって楽だったのだ。とは言え根が残っているから萌芽するだろう。結局は抜根除去しなければならない顛末になる。

 そんな中、蕾を着けた株になると鎌を使ってもガーデンレーキが重さに耐えられない。大株は手抜きの方が効率的である。そんなこんなで棚田部と温水田、二つ池のコナギを排除し、ついでに葦を抜きカサスゲをも間引きした。引き続いて泥水池の除草が待っているが、そっちはイネ科の大株が多いので更に大変になる。でもやらねば終わらないし誰かがやってくれるでも無し。かくして自らの尻を叩きつつ自転車操業に突入である。おいらってSなのか自傷的なのか自虐的なのか、よくわからなくなった昨今ではある。
 侵入竹除伐も植樹も一通り済んだ現在、日々の保全作業は草刈りと水域の保守になっている。前者は「やれば片付く」が後者は「エンドレスの再生産」で、これこそ業の輪廻と言うべき渦中なのである。「抜けられない終わらない。刈る身の河童忌み選」なんちゃって・・・。

 鎌を入れた  ➡   集草場外搬出

        温水田カサスゲ抜去  ➡   間引き終わり

                二つ池葦抜去  ➡   終了  ➡   抜去葦