トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

ジョウビタキ、入ってきたみたい…

2020-10-28 | 小父のお隣さん
 懐かしい、というより待っていた「ヒッヒ」という鳴き声が聞こえる。ジョウビタキの鳴き声に間違いないと思ったものの「カッカ」という音が聞こえず姿も見せないのでは確認の仕様が無かった。鳴き声の一節だけで理解できるほどの耳も無く、視認か「カッカ」という音を聞かねば断定できない小生なのだ。
 飛来してしばらくは姿を見せないのが概ねで、そのうちに警戒を解いて近くでも鳴くし、「送り狼」ならぬ「送りジョウビタキ」なんて行動も普通になってくる。勝手に姿を認めて「ギャーギャー」と鳴くヒヨドリよりはたんとたんとましである。その昔、雅の人たちの間ではヒヨドリは人気だったとか、小生にはその気持ちが全く理解できない。

 さて外来種のソウシチョウやガビチョウなどの鳴き声も、その都度教えてもらってはいるが記憶には留まらないから比較も出来ないし特徴もつかめないのである。とは言えカッコウやウグイスは良ーく判るし、「野鳥の声」CDの解説で「ヒバリやツバメの長いさえずりを覚えるのは難しいものです」なんて言い草があったものの、小生的には「これほど易しい類は無い!」というのが感想である。いくら長くても類似のさえずりは「無い!」ので間違えようが無い。小生でも判るのだ。

※ 帰宅後、鳴き声を聞いたが姿までは確認できず。翌29日、フイールドで視認した。28日飛来間違いなし。

アキグミはコリの味・・・

2020-10-28 | 感じるままの回り道
 コリといっても古里なので現在進行形の肩凝りではなく古い記憶の彼方である。フイールドの片隅にひっそりと育ったアキグミが熟していた。昨年も結実していたが青く硬いまま育たず散ったのだった。「子曰わく、苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり。」との一節を想ったものだったが今期は稔ってくれた。
 ヒヨドリに喰われて小生に口には入らない果実と思っていたのだがこの日は啄まれた形跡はない。思い返してみるとナワシログミもツルグミも最初に結実し熟した年は被害が無くて口に入ったのだった。ナワシログミで果実酒を作ろうと自宅裏手に育てた株もそうだったしフイールドのツルグミ挿し木苗から育てた株もそうだった。しかし翌年あたりから完熟しない前にヒヨドリに荒らされ、ネットを掛ければわずかな隙間を見つけて完食される手太楽で、数年後には業を煮やして除伐したのだった。

 このアキグミも恐らくそのような経過をたどるのは間違いないけれど、とりあえずは様子見である。少年時代畑地を越え水無川の周囲の荒れ池にわんさと繁っていたアキグミとアケビは喰い放題だったので秋になると通ったものだ。
 当時の記憶では「酸っぱい、渋い果実」の代表格のように思っていたけれど、今回食べた果実は意外に甘く渋みも薄かった。まあ、郷里野生の品種では無いからそうなのかもしれないけれど、アキグミやクワの実などは少年時代の記憶に直結している果実でもある。

           

「やって良い」ところはやらない!

2020-10-28 | 小人閑居して憮然
 常々、「くそ!どうしてなのだ!」と止むことのない鬱憤。けんおじさんが鬼籍に入った今は「脱糞だ!」は止んでしまったのに、これでは病んでしまいかねない。
 というのも威之志士様の跋扈蹂躙の日々、やられるところとやられないところは明確なのだ。やって良い場所は跋扈蹂躙せず、やってはもらいたくない生命線や急所な場所ほど狼藉を行う。それも水辺の湛水構造の肝心要の場所が執拗に狙われ破壊されるので、折々に補修を加えていても尽きる事のない手間なのである。

 「エントロピー増大の法則」にのっとっている、と言えば正しくそうなのだが、一方では「威之志士様増大の法則」も断固として維持されているから小生が諦めるしかないのだろうが「判っちゃいるけど止められない!」のだった。「生き続ける活動の結果としてエントロピー増大があり、それを捨てているのが生命活動である」という解説を想えば、まさしく水辺は「生きている」のであって、まあ必要不可欠で、スイスイスーダラダッタとはいかない日々でもあるのだ。ああ古き良き時代は去ったのであった。

 写真で一例を示せば棚田部のオーバーフローからの水路北側は梅畑なのだが全く掘り返しは無く、水路の方に盛り上げた浚渫土さえ足跡も付けていない。然るに水路南側は堤から畔から法面からトラクターで耕起されたかのようにペンペングサも生えない有様まで崩された。あろうことか大株に育ったフジバカマや育ちつつあるフジバカマの株など、育成していた植生までが影も形もなくなった。豚熱頂礼豚熱頂礼、いいえ豚熱招来豚熱招来、両の手を合わせ拝みたいけれどン十肩では拝みも出来んて…。