健作ランキングは場外に去ったが検索ランキングに「はらぺこあおむし」が入っている。不動不変の絵本なのに「何で!」と思っていたのだが朝刊をみて理解できた。作者エリック・カール氏が逝去された故だったのである。小生宅にも一冊あったはずなのだが既に絵本の類は一冊も無い。どこかの誰かへと巡り巡ってボロボロになってしまったかもしれない。それはそれで絵本としての生命を全うしたことになる。
「はらぺこあおむし」の画像を見ていて「ビビビッ」とは異なる感覚が湧いてくる。久しぶりに見る画像は大人をも引き付ける魅力があるのだ。が、小生の妄想傾向は感傷を許してくれず妄想イメージの虚空に飛んでしまったのだった。「はらぺこあおむし」を木製玩具で仕立てたい!。
フイールドの刈り払いも野草のコロニーも上の池の護岸も・・・とやるべき作業は目白押し、てんこ盛りなのだが点呼の順番さえ決まらないままに横道に入ってしまう彷徨の日々になってしまった。恐らく木久扇師匠もそんな生活で寄席までたどり着けぬ今日この頃なのだろうが、あっちはお弟子さんが付き添うから洟啜って歩いてもズーとまし。それ以上に姥捨て山の孤老にはならず、それが飯のタネにもなっている果報者である。
さてさて隣の芝生をうらやんでも役には立たず、ここは自助努力で解決しなければならないのが姥捨て山の自前自助努力介護私援通所なのであった。まあ、毎日が日曜日の身分だと閑話休題を多用せなばならなくなるものの、妄想が生じるとそれどころではない「セルフ苦行」に近いものになってくる。まーっ、ご先祖様以来、頭文字はSなのだから「推して知るべし」か…結果、背中を押されて地獄の釜にドボンが通例。業とは具現するものなのだ。
さて、イメージは頭の中にある。玩具に仕立てるにはイメージを具体化しなければならない。いいや、この場合は「具現化か?」と電子辞書を開いたが「該当語はありません」のメッセージだ。小生が読み誤っていたのかと不安で、とりあえず「具現」を検索したら表示されたのだった。「具体」の場合には「化」や「的」は使えても「具現」の場合は繋げないのかもしれないと思ったものの、国語教員で無かったから判らず、今になって「国語教員」になっておけば良かったと臍を噛んだ。
国語教師の美和先生が卒業文集に寄せた単語が「恕」で長らく理由がわからなかった。同級会にお出でになった折りに直接尋ねたら「論語」からの引用で、それでようやく理解できたのだが卒業文集で記憶にあるのはこの一語のみ。
それはともかく、ぐちゃぐちゃ書いている間にリビングはごちゃごちゃの酷い有様になった。材に製図し切り出して調整していく手間は膨大になるので食事は「口に入れば良い」となるし「かたずけは終わってから」となってしまうので仕舞いのつけようは無いのだ。
さて、青虫の本体の機構は「動く魚」や「ヘビ」の延長でもあるが「青虫の動き」をそれらしく見せるためには魚やヘビより柔軟性が必須で、何せ背骨も固い外殻もない生物を木材で見せるのは頭が痛い。
ネット上の「はらぺこあおむし」玩具を眺めても参考にはならず正直言って魅力のない商品ばかりだった。小生の作品が魅力がある出来上がりになるなどとは思えないものの、まあ、喜んでもらえればそれで良し。
ここまで可動範囲を作っても・・・ ➡
青虫の動きには不足だ
材採りと製図、ピースに切断までの撮影をしてなかったので手始めの画像は無し。「慌てるお爺は画像が少ない」とは古来から言われておる故なのか短期記憶が劣化したためなのか、それを考えるより動きを出さねば。
こういう摘まんでしっかり保持する作業が続くので左手親指の痛いのが治らない。整形や調整には保持具は不向きで、どうしても親指と人差し指・中指での保持が必須だ。わが親指、孤立無援でよう頑張っておるのだ。夜は湿布で夜伽をさせてやろう。
昨今、指三本を立てて抗議しなければならぬ酷い国家もあるものの、小生の指三本はため息ついてさするだけ。痛いの痛いの飛んで行けーっでナデナデし済むだけ「まし」と言うものである。