蜘蛛は昆虫ではない。小生とてその程度の知能はまだ現存させているけれど昆虫図鑑にはクモの頁はあるので「昆虫スコイぜ!」として掲載した咎めは出版社にある。エノキの葉上にアカボシゴマダラの幼虫でも居ないだろうかと帰路、立ち止って眺めていたら蜘蛛の姿が目に留まった。一見して蜘蛛の全身があるのではないのが明白だったから遠視と乱視の眼の焦点を当てたつもりで眼をを近づけたら蚊帳みたいなネット状の中に子蜘蛛が群れているではないか。それで解ったのだった「母蜘蛛は産卵して孵化するまで見守っていたのだろう」と。
薄れた記憶だけれど孵化した我が子に自分自身を食べさせる習性と言うかそういうシステムを有する生物は珍しくも無いのだった。親の立場になれば「我が子の社会化」までが責任があるともいえるからこの蜘蛛の母御もきっと我が身を提供したに違いない。思えば本能に従ったとは申せ慈母としての慈しみであるとも思える。一方、幼子を床に叩きつけたり熱湯に沈めたり足蹴にしたりと鬼畜以上の行為を行う輩も報道から消える事も無い日々だ。そんな中でこのようなシーンに出会うと汗と泥でドロドロヘロヘロの孤爺とは言え少しだけだが足腰がシャンと伸びるような心持になる。欲を言えば足腰だけでなく頭頂部の何やらも伸びて欲しいのが偽りのない胸の内だけれど、こればかりは若き日のみぎりより継続した結果でもあって無理な願いだと言う事は合点承知の助でもあるのだ。
母蜘蛛の想う事までは分からないけれど「自分は死しても我が子の命になるように・・・」と見守って我が身を与えた心魂は幼子を傷つける輩、というより鬼畜には持ち合わせない慈性である。ここのところ報道を騒がせている常習鬼畜を温存していた組織はどういう結びをするのだろうか…。それらは以心伝心・忖度・知らぬ顔の半兵衛みたいに「みんなで凌げば怖くない」てなもんや三度笠で行くのだろうねきっと。まあ、隠れ連帯かつ村長の腹積もり…てなもんや三度笠。