かつて李登輝氏は「台湾に生まれた悲運」について語ったことがある。1945年、日本が敗戦すると、日本人だと教え込まれていた台湾人は、突然、国民党支配下の中華民国国民とされた。日本式の教育を受け、日本人的な思考方法を身につけた台湾人(本省人)は、大陸から逃亡してきた外省人と折り合えるはずもなかった。その結果、「二・二八事件」の惨劇が生じたのだった。
今回、私たちは映画「悲情城市」の舞台となった九分(”ふん”は、人偏プラス分が正式の漢字)を訪れた。1989年制作されたこの映画は、1945年を境に激変した、典型的な台湾人家族の運命を描いている。
(「悲情城市」のDVD)
この九分では、偶然、タイムスリップしたのかと錯覚するような老婆に会った。参道の土産物屋を抜け、人がまばらになった坂の上から、その老婆はつえをつきながら降りてきた…。
(九分の老婆)
台湾映画と言えば、もうひとつ印象深い映画がある。「多桑(父さん)」という映画だ。「多桑」は、台湾語で「父さん」と発音する。もちろん、その意味は、日本語と同じ「父さん」である。映画の中の「父さん」は、日本が統治していた頃の古い台湾を懐かしんでいるような人だった。その息子は、父親の気持ちが全く理解できない。父親が東京に行き、皇居を見てから死にたいと言っていたのを、ついに実現させてやることが出来なかった。すれ違いの父子の愛情が、切々と伝わってくるような映画だった。
今回、この映画のDVDを見つけることが出来なかったのは心残りだ。
最近、さほど時をおかずして、中国と台湾の両方を訪れたのだが、両者の違いは歴然としていた。急速に経済発展する大連、瀋陽では、古い建物はほとんどすべて壊され、香港風の都会と変貌していた。街はまるで西部劇の舞台のようで、カネを稼いだ者が勝ち…という雰囲気が漂っていた。一方、台北には、落ち着きと品位が感じられた。何と言っても安心して街を歩けるし、日本人に対して突き刺すような目線を感じることもない。
(九分「悲情城市」の撮影場所)
かつて日本であった台湾。中国のように「日本軍国主義」を非難するわけでもなく、今なお親日的なこの国を、日本は見捨てようとしている。一体「悲情城市」「多桑」のような映画をどこの国が製作するだろうか。「歴史のひだ」を知り尽くし、「台湾に生まれた悲運」を知るからこそ、作れるのだと思う。その繊細な心情をもっと理解すべきだろう。
李登輝氏のような偉大な人物を生みだした台湾。過ぎ去った古い日本の良さを思い出させてくれる国だ。
(「悲情城市」の撮影場所)
今回、私たちは映画「悲情城市」の舞台となった九分(”ふん”は、人偏プラス分が正式の漢字)を訪れた。1989年制作されたこの映画は、1945年を境に激変した、典型的な台湾人家族の運命を描いている。
(「悲情城市」のDVD)
この九分では、偶然、タイムスリップしたのかと錯覚するような老婆に会った。参道の土産物屋を抜け、人がまばらになった坂の上から、その老婆はつえをつきながら降りてきた…。
(九分の老婆)
台湾映画と言えば、もうひとつ印象深い映画がある。「多桑(父さん)」という映画だ。「多桑」は、台湾語で「父さん」と発音する。もちろん、その意味は、日本語と同じ「父さん」である。映画の中の「父さん」は、日本が統治していた頃の古い台湾を懐かしんでいるような人だった。その息子は、父親の気持ちが全く理解できない。父親が東京に行き、皇居を見てから死にたいと言っていたのを、ついに実現させてやることが出来なかった。すれ違いの父子の愛情が、切々と伝わってくるような映画だった。
今回、この映画のDVDを見つけることが出来なかったのは心残りだ。
最近、さほど時をおかずして、中国と台湾の両方を訪れたのだが、両者の違いは歴然としていた。急速に経済発展する大連、瀋陽では、古い建物はほとんどすべて壊され、香港風の都会と変貌していた。街はまるで西部劇の舞台のようで、カネを稼いだ者が勝ち…という雰囲気が漂っていた。一方、台北には、落ち着きと品位が感じられた。何と言っても安心して街を歩けるし、日本人に対して突き刺すような目線を感じることもない。
(九分「悲情城市」の撮影場所)
かつて日本であった台湾。中国のように「日本軍国主義」を非難するわけでもなく、今なお親日的なこの国を、日本は見捨てようとしている。一体「悲情城市」「多桑」のような映画をどこの国が製作するだろうか。「歴史のひだ」を知り尽くし、「台湾に生まれた悲運」を知るからこそ、作れるのだと思う。その繊細な心情をもっと理解すべきだろう。
李登輝氏のような偉大な人物を生みだした台湾。過ぎ去った古い日本の良さを思い出させてくれる国だ。
(「悲情城市」の撮影場所)