Ⅰ.マントヴァーニをめぐって
シャルメーヌ Charmaine
♭♪あなたと会ったあの晩は忘れない 愛していると言ってくれたのに そのあなたはもういない 私をどこかで待ち続けているのか シャルメーヌ…
これは、1926年のアメリカ映画「栄光」(原題「What price glory」)の伴奏音楽として使用された「シャルメーヌ」(Charmaine)の歌詞の一部である。甘い歌詞とメロディを持つこの曲は、1951年マントヴァーニ楽団の演奏で大ヒットし、日本においても同年の年間ヒットチャートで3位を記録した。1958年にはマントヴァーニのアルバム「ワルツ・アンコール」(Waltz Encores) の中に再録音され、そのストリングスの美しさとステレオ録音の素晴らしさでファンを熱中させた。
作曲はエルノ・ラペエ(Erno Rapee)、作詞はリュウ・ポラック(Lew Pollack)である。
シャルメーヌはこの映画に登場するフランス人の少女の名前である。「ライムライト」の「テリーのテーマ」と同じように、この「シャルメーヌ」もサイレント映画のテーマ曲であったため、かえってひとびとに強い印象を残したのだろうか。マントヴァーニだけでなく、多くのシンガー、楽団がレコーディングをおこなっている。ボーカルではフランク・シナトラ、ジャズ系ではトミー・ドーシー楽団、エロール・ガーナー、ムード音楽ではヘルムート・ツァハリアス、ジョージ・メラクリーノ、ジャームス・ラスト楽団など40種類以上のバージョンがある。
またこの曲は意外なところで使われている。ジャック・ニコルソン主演の「カッコーの巣の上で」では、精神病院の中で患者の気分を和ませるために、このレコードがかけられるシーンがあった。英国の風刺コメディである「モンティ・パイソン・フライングサーカス」では、、エキサイトしたサッカー試合のバックに全く場違いなこの曲が流された。
現在でも米国ではこの曲と映画を愛するファンが多いとみえ、インターネットを検索すると「シャルメーヌ・クラブ」というホームページを見つけることができる。そこにはこの映画の出演者やシャルメーヌの歌詞、演奏者リストなどの詳しいデータのほかに、シャルメーヌという名前を持つ女性に入会を呼びかけるページまである。シャルメーヌという名前は、彼らにとってまさに古きよき時代を思い起こさせる甘美な響きを持つのかも知れない。
マントヴァーニ楽団のテーマ曲がこのシャルメーヌであることはよく知られている。思えば私自身も35年前この曲のシングル盤を買い、その美しさに心をひかれマントヴァーニのファンとなったのだった。シャルメーヌは、それ以来私の心の片隅にずっと潜んでいたような気がする。そのシャルメーヌにこのたび初めて出会った。HPの中に掲載されているポスターである。
この可憐なシャルメーヌとともに、マントヴァーニとその時代を振り返ってみよう。
マントヴァーニの音楽歴
マントヴァーニの本名はアヌンツィオ・パオロ・マントヴァーニ(Annunzio Paolo Mantovani)といい、1905年イタリアのベネツィア(ベニス)に生まれた。彼の父親は、アルトゥーロ・トスカニーニのもとミラノ・のスカラ座管弦楽団のコンサートマスターをつとめ、マスカーニ、サン・サーンスなどにも仕えた経歴を持つ。のちにはコベントガーデン管弦楽団を指揮した有名な音楽家であった。
だがマントヴァーニが音楽家になるよう励ましたのは、その父ではなく、むしろ母親であったといわれる。彼は最初ピアノを習い、のちにバイオリンを学んだ。1912年に家族が英国に移り住んだ後、彼は16歳でブルッフのバイオリン協奏曲第1番を演奏して、音楽界にデビューした。
その4年後、彼はポピュラー音楽に転向する。ロンドンのメトロポール・ホテルで自分の楽団を始め、ラジオ放送にものりだした。つづく’30年代の初期、彼は当時流行のティピカ楽団を組織し、ロンドン・ピカデリーにある有名レストランからランチタイム放送をおこなうとともに、レコード録音を開始した。もちろん当時はSPの時代である。このころ、彼は米国で「夕日に赤い帆」(Red Sails in the sunset)「夜のセレナーデ」(Serenade in the night)の2曲をヒットさせた。
’40年代の彼は、音楽ディレクターとしてノエル・カワードの「パシフィック1860」「クラブのエース」に関わり、劇場のオーケストラ・ピットではL・レーン、メリー・マーティンなどの伴奏者として活躍した。このころに彼は後述するロナルド・ビンジ (Ronald Binge)と出会うことになる。
当時アメリカの音楽市場は、英国とは比較にならないほど大きく有望だった。その音楽市場に目標を定め数々の編曲を試すうちに、彼は、ロナルド・ビンジのオリジナル・アイディアとされる「カスケーディング・ストリングス」にたどりついた。それは彼の楽団のトレード・マークとなり、あの「シャルメーヌ」ではじめて使われたのである。’50年代初期にはこの曲以外にも「グリーン・スリーブス」「ムーラン・ルージュの歌(Moulin Rouge theme)」(英国ナンバーワンヒット)、「スウェーデン狂詩曲」「孤独なバレリーナ」(Lonely Ballerina)などのヒットをとばしている。ただしこの時期はモノラル録音のシングル盤が中心であった。マントバーニが世界中で名をあげたのは、アルバム(LP)・アーティストとしてであり、とりわけ1958年にステレオLPが登場してからが彼の独壇場であった。
のちに述べるが、彼は英国デッカ(Decca Records : 米国・日本では「ロンドン」レーベル)の優れた録音技術に助けられ、最初に百万枚のステレオLPを売ったアーティストとなった。1955年から1966年の間に彼は、米国トップ30に28枚ものアルバムを送っている。「ビルボード」誌のチャートについては、のちに詳細にふれたいと思う。
「ある年の米国ツアーの最初にマエストロ(マントヴァーニ)が病気になり、予定されたコンサートをキャンセルしなければならなくなった。ミネソタ大学とミネアポリスのコンサートでは切符を買っていた聴衆が払い戻しを拒否し、翌年のツアーに切符をまわすよう望んだ。」こういうエピソードを長年マントヴァーニのマネージャーをつとめた人物が記している。彼が米国でいかに人気があったかを物語るものである。その彼は、1963年たった一度だけ来日公演を行った。
彼の音楽の最大の特徴は、’60~70年代においてもずっと変わらない音楽傾向を続けたことである。
1980年3月30日英国ケント州タンブリッジ・ウェルズで死去した彼は、その生涯で767曲※の録音を残し、全世界で一億枚以上のアルバム(LP)を売り上げたといわれる。
(※ マントヴァーニはSP時代の録音を含めると、767曲をはるかに超える録音を残している。)
栄光のデッカサウンドとマントヴァーニ Decca Sounds and Mantovani
マントヴァーニの成功は、①ロナルド・ビンジが編曲したカスケーディング・ストリングス、②英国デッカ(ロンドン)社の優秀な録音という二つの要素によるところが大きい。
デッカの名を世界的に轟かせたのは、FFRR、FFSSで知られる優秀録音である。1950年にはFFRR(モノラル録音)のLPレコードを発売、1954年にはステレオ録音を開始、1958年にはFFSS(ステレオ録音)のLPを発売し、その録音技術は他社を圧倒してきた。
デッカは1952年に最初のステレオ録音を実験した。そのとき演奏したのはマントヴァーニの楽団だったことが、R・ムーン著『Full Frequency Stereophonic Sound』(1990)には記されている。録音の重要性を理解していたマントヴァーニらしい試みであり、レコードの歴史を考えるうえでも彼の存在が予想以上に大きいことがわかる。
デッカ録音といえば、ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルのワグナー「ニーベルングの指輪」が筆頭に挙げられる。これは「ハイファイ愛好家に喜んで受け入れられ、一方アコースティックな音空間の中でオーケストラのバランスを取るデッカ特有のアプローチ」の最高傑作とされるレコードである。当時のデッカ録音の特徴は、ホール・トーンを適度に捉えつつ、個々の楽器や声をクローズアップして、両者を上手にブレンドする音づくりにあると言われた。これは、ワン・ポイント・マイクによるテラークのデジタル録音などとは対照的である。デッカがパッションフルーツ・ジュースだとすれば、テラークは蒸留水といった感じである。
のちにふれるが、マントヴァーニのサウンドは、人工的に作られたものという見方があった。ところが、実際にはクラシック音楽と同様のポリシーで録音が行われていた。ジョセフ・ランザ著「エレベーター・ミュージック」(岩本正恵訳 白水社 1997: Joseph Lanza "Elevator Music - A Surreal History of Muzak , Easy-Listening, and other Moodsong" 1994 Picador USA) には、そのことを裏付ける次のような記述が見られる。
「マントヴァーニの成功は、初期の頃からずっと録音技師をつとめたアーサー・リリーの力によるところが大きい。たとえば、耳をつんざくロックンロールを録音するためにデッカのスタジオにカーペットが敷かれていたような場合、マントヴァーニが録音の準備をしているあいだに、リリーは率先してカーペットをはがし、エコーの効果を高めた。…残響効果を得るために、彼はストリングスだけでも最低九本のマイクを使った。」
アーサー・リリー(Arthur Lilly)は、プロデューサーのトニー・ダマート(Tony D'Amato)とともに、フェイズ4クラシックスやロンドン・フェスティバル管弦楽団などの録音にも携わっている。彼が録音したフェイズ4クラシックスには、「展覧会の絵」(レオポルド・ストコフスキー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「シェエラザート」(L・ストコフスキー/ロンドン交響楽団)、「ローマの松」(シャルル・ミュンシュ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)、「カルミナ・ブラーナ」(アンタル・ドラティ/ロンドン交響楽団)など数々の名盤がある。
フェイズ4録音とマントヴァーニ Phase 4 recordings and Mantovani
このフェイズ4録音(Phase4 Recordings)は、1962年に開始された、デッカが誇るマルチ・チャンネル録音であった。やや遅れて流行した4チャンネル録音とは異なるものである。同時期に定評のあった「マーキュリー・リビング・プレゼンス」(Mercury Living Presence)と比較すると、前述のテラークとの関係と同じことが言えるだろう。マーキュリーのほうは、優秀なワンポイント録音技術が売りものだった。たとえば、チャイコフスキー「大序曲1812年」をレオポルド・ストコフスキーのフェイズ4録音とアンタル・ドラティのリビングプレゼンスで比べてみよう。音の華麗な点ではデッカに、音場感ではマーキュリーに軍配が上がるだろう。
クラシック録音と並行して、デッカは多数のポピュラー・アルバムをフェイズ4で録音した。スタンリー・ブラック(Stanley Black)指揮ロンドン・フェスティバル管弦楽団による 「フィルム・スペキュタクラー(Film Spectacular)」などのアルバム、ロニー・アルドリッチ (Ronnie Aldrich)の2台のピアノによる数々のアルバムをはじめとして、フランク・チャックスフィールド(Frank Chacksfield)、テッド・ヒース(Ted Heath)、エドムンド・ロス(Edmund Ros)、ウェルナー・ミューラー(Werner Muller)など枚挙にいとまがないほどである。
ところが、マントヴァーニについては「キスメット(Kismet)」(1964年)ほか数えるほどしかない。「キスメット」と同時期のアルバムには「アメリカン・ワルツ集(American Waltzes)」(1962年)、「マリオ・デル・モナコと共に(With Mario del Monaco)」(1962年)、「ラテン・ランデブー (Latin Rendezvous)」(1963年)、「マンハッタン(Manhattan)」(1963年)などがあるが、どれもフェイズ4録音ではない。デッカの一枚看板であった彼に、何故この録音が少ないのかは謎である。
これは私の想像だが、彼はフェイズ4録音を好まなかったのではないだろうか。いま手元にボブ・シャープレス制作の一連のフェイズ4録音のCD(吹奏楽)があるが、これを聴くと左右に金管楽器がめまぐるしく移動し、音場がいわゆる「中抜け」となっている。確かに音質はいいのだが、今となっては音作りが不自然で時代遅れに聴こえる。ステレオ効果を意識しすぎて、音楽性が希薄に感じられるのである。マントヴァーニは、このことに早くから気づいていたのではないだろうか。
1973年録音の「An Evening with Mantovani」はフェイズ4録音ではあるが、そのような不自然さは感じられない。木管、金管楽器がクローズアップされ、ドラムスが控え目に入っているところが当代的であるが、独自のスタイルを崩すというほどではない。「静かに音楽を奏で続けた」マントヴァーニの一貫性をここでも確かめることができる。
カスケーディング・ストリングスの秘密 The secret of Cascading Strings
マントヴァーニの特徴は、カスケーディング・ストリングスと呼ばれる弦楽器の奏法にある。初期のマントヴァーニのアルバム(英米盤)には「いかなるエコー・マシーンも使っていない」との注意書きがあった。これはカスケーディング・ストリングスが編曲によるもので、人工的な音ではないことを示す目的があったと思われる。
カスケーディング・ストリングスとは、文字どおり「滝が流れ落ちる」ような弦の響きであり、ロナルド・ビンジの才覚によって生まれたと言えよう。具体的には「シャルメーヌ」や「魅惑の宵」のストリングスを思い起こしてほしい。
ここに「題名のない音楽会 (The untitled concert)」(1994年9月11日、テレビ朝日で放送)で黛敏郎が採り上げた「カスケーディング・ストリングスの秘密」の記録があるので、再現してみたい。当日は三十周年記念の番組であり、過去の企画を回顧するなかでこのテーマが採り上げられた。「魅惑の宵」(Some Enchanted Evening) の冒頭部分のスコアが客席に向かって掲示されたステージ上で、黛敏郎は次のように解説した。
《黛敏郎の解説》
マントヴァーニがアレンジした場合には、バイオリンを4つの部分に分ける。その4つのグループどれ が演奏しても、メロディそのものは出てこない。
(オーケストラ=東京交響楽団が、バイオリンのA~Dの4パートのうち、パートAを演奏する。)
全然メロディを感じませんね。
(次にパートBが演奏される。)
有名なメロディとは似つかわしくない。
(パートCを演奏)
…やっと片鱗は聴こえるが、満足はできない。
(パートDを演奏)
お聴きのように、4つの部分がメロディの一部らしきものをやっているけれども、実際のメロディは出てこない。それは何故かといえば、分散してやっているからです。どう分散してい るかというと交互に(A~Dの)違ったグループに行ったり来たりする。それが一緒になると、他の音 が余韻となっているので、エコーのように聴こえる。これを多用したのがマントヴァーニのアレンジの秘 密である。当時、石丸さんはこんな解説をしておられた。
ここで演奏された「魅惑の宵」は、福田一雄による編曲だった。おそらくロナルド・ビンジによるオリジナル・スコアは、著作権の関係で使えなかったのだろう。しかし、東京交響楽団が奏でた音は、マントヴァーニ楽団と全く変わらないものであった。クラシックの楽団はPA(Public Address; 増幅装置)を使用しないので、ここで生まれたサウンドはすべて編曲によるものであることが実証された。
マントヴァーニの唯一の来日は1963年5月であった。30年前に同様の解説をしたと黛敏郎は語っているので、それがオン・エアされたのは、1964年のことだと推測される。マントヴァーニの弦の秘密は、そのころこの同じテレビ番組で初めて解明されたのである。
黛敏郎も、このとき指揮した石丸寛も今はもういない。ムード音楽にこだわりを持つ世代が次第に少なくなっていることを実感する。
編曲者ロナルド・ビンジ The arranger Ronald Binge
では、カスケーディング・ストリングスを考案したロナルド・ビンジ(Ronald Binge)とは、どんな人物だったのだろうか。
彼は1910年英国のダービーに生まれ、1979年に死去している。ほぼマントヴァーニと同世代である。父親を早く失ったため苦労を重ねたが、ダービーのセント・アンドリュース教会のオルガン奏者件合唱指揮者だった人物からピアノのレッスンを受け、音楽に目覚める。
しかし、貧しかったため音楽学校に進む夢は叶わず、17歳にして映画館のオルガニストとなる。もちろんサイレント映画の時代である。映画の場面に応じて音楽を供給するという経験は、彼の作曲活動に大いに役立つことになった。
アコーディオン奏者兼ピアノ奏者として彼は、1935年にマントヴァーニのティピカ・オーケストラに加わり、同時にすべてのアレンジを担当した。当時のマントヴァーニ楽団は、のちのような大編成ではなく、バイオリン(マントヴァーニが担当)、ピアノ、ウッド・ベース、トランペット、クラリネット、アコーディオンといった編成であった。ちなみに、この頃の演奏は「Vintage Mantovani」(Hallmark 302422)ほかで聴くことができる。
1951年デッカ・レコード社長のヘンリー・サートンは「ビクトリア・パレス・クレージー・ギャング・ショー」に出演中のマントヴァーニのために編曲するようR.ビンジに依頼した。それに応えて彼は、少数の木管楽器をちりばめ、大編成の弦楽器がメロディを奏でるという新しいアレンジを考案した。「シャルメーヌ」のあのサウンドである。これはのちに「カスケーディング・ストリングス」(Cascading Strings)として世界中に知られるようになった。
このストリングスの技法を駆使した彼の作品に「粉雪の踊り」(The Dance of the Snow flakes)という曲がある。そこで彼は、バイオリンを6つのパートに分けて粉雪が舞うパノラマ的な情景を演出している。これはCD「British Light Music~Ronald Binge」(マルコポーロ、8.223515)に収められている。演奏はスロバキア放送交響楽団であるが、確かにマントヴァーニ楽団のような音を出している。
このビンジの技法は、いわばコロンブスの卵であった。誰でもできそうで、誰も試みなかった、そんなスタイルである。マントヴァーニのアルバムを聴くと、どの曲にも必ずカスケーディング・ストリングスを誇示するパートがあり、彼とその他の楽団を区別するスパイスの役割を果たしていることがわかる。
ロナルド・ビンジは編曲者としてだけではなく、作曲家としても有名だった。マントヴァーニ楽団のヒット曲として知られる「エリザベス朝セレナーデ」(Elizabethan Serenade)」は、彼の代表作である。また、50年代後半にデビット・ホイットフィールド(David Whitfield)がマントヴァーニ楽団の伴奏で唱い、60年代に入ってからは米国のポップ・グループ「ジェイとアメリカンズ」で大ヒットした「カラ・ミア」(Cara Mia)は、実は彼とマントヴァーニの共作であった。ペンネームで書かれたこの曲が二人の作品であることは、案外知られていない。
このようにマントヴァーニは不可分の関係にあった彼だが、カスケーディング・ストリングスの編曲者として語られることを好まなかったという。「あれは技術的な仕事に過ぎず、十分な報酬はいただいた。作曲の仕事とは異なる分野だ」というのが口癖だった。マントヴァーニとともに築いた彼のサクセス・ストーリーを人々が早く忘れるよう願っていたとも言われる。
ビルボード・チャートにみるマントヴァーニ Mantovani on the Billboard's Charts
米国の有名な音楽雑誌「ビルボード」 (The Billboard Book)には、アルバム・チャートという部門がある。アルバム(LP)のセールスに基づき順位をつけているのだが、1955年から1986年までの記録を見ても、マントヴァーニが同種の数ある楽団の中でダントツの人気を誇っていたことがわかる。次に楽団名と、それに続くかっこ内には(トップ40に登場したアルバムの枚数)を示してみよう。
《トップ40に登場したアルバム数》
【米国系】
アンドレ・コステラネッツ(1) カーメン・ドラゴン(2) モートン・グールド(2)
アーサー・フィードラー&ボストンポップス(7) ローレンス・ウェルク(24) ビリー・ヴォーン(18)
レイ・コニフ(28) イノック・ライト(11) パーシー・フェイス(9) ネルソン・リドル(2)
クインシー・ジョーンズ(4) ジャッキー・グリースン(10) リビング・ストリングス(1)
【英国系】
マントヴァーニ(30) スタンリー・ブラック(2) ジョージ・メラクリーノ(2)
ロニー・アルドリッチ(2) フランク・チャックスフィールド(1)
【その他】
ベルト・ケムプフェルト(8) ポール・モーリア(1) 101ストリングス(2)
マントヴァーニのアルバムは実に30枚がランク入りしていている。これに続くのが、レイ・コニフ(Ray Coniff)、ローレンス・ウェルク('Lawrence Welk)、ビリー・ボーン(Billy Vaughn) である。彼らの音楽は、楽天的で単純明快なのが特徴である。レコードで聴く限り、それほど音楽性が高いとは思えない。同時期のパーシー・フェイス (Percy Faith) のほうが音楽性に優れ、ずっとエレガントで日本人好みである。だが彼らは、米国ではTVショウなどを通じて大衆的な人気があったのだろう。ローレンス・ウェルクは「シャンパン・ミュージック」の王様といわれ、自分のTV番組を持っていた。
一方、クラシック音楽にも造詣が深く、アルバムの内容も優れたアンドレ・コステラネッツ (Andre Kostelanetz) やモートン・グールド(Morton Gould) が予想外に振るわないのをみると、音楽性とレコードセールスが必ずしも一致しないのがわかる。
ちなみにアンドレ・コステラネッツは1955年NHK交響楽団を指揮するため来日したが、その際「マントヴァーニをどう思いますか」という問いに対し「スクールが違う」と答えたというエピソードを残している。(細野達也「昭和なかばのN響」)
「スクール」(School)という言葉は、通常音楽上の「流派」を指すが、出身校のこととも解される。どちらの意味であったとしても「マントヴァーニなどと比較されたくないよ」という気持ちだったのだろう。いかにもプライドの高そうな彼の言葉ではある。だがアルバム・チャートを振り返ると、これは案外彼の本音だったかも知れない。
年代別トップチャート
英国人であるマントヴァーニは、ライバルがひしめく米国市場に売り込みをかける必要があった。ジョセフ・ランザは次のように記している。
「…アメリカで聴き手の心をつかむにはどうすればいいか考えた、というマントヴァーニは、40人編成のオーケストラ(うち28人は弦楽器)をデッカの最新スタジオシステムで処理して、中世の教会の音響を20世紀によみがえらせた。」 (「エレベーター・ミュージック」)
その成果はどれほどのものであったのか。
「ビルボード・アルバム・チャート・トップ40」(”The Billboard Book of Top 40 Albums” 1987 日本語訳は音楽之友社刊)の著者であるジョエル・ホイットバーン(JoelWhitburn)は、年代別のチャートも作成しているので、少し紹介したい。彼は1955年から1986年までのビルボード・チャートを調べ上げ、次のようにポイント化した。
① トップ40に入ったアルバムは、順位に従い、1位40点、2位39点…40位1点とする。
② 最高位が1位~5位のアルバムに25点、5~10位に20点、11~20位に15点、21位~30位に10点、30位~40位に5点を加える。
③ アルバムがトップ40に入っていた週を点に加える。
④ 1位となったアルバムは、1位の週数も点に加える。
この方法でポイント化したチャートが次のふたつの表である。
《1955~1986年のトップ20アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 3571点
②エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 3081点
③ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones) 2554点
④バーブラ・ストレイザンド(Barbra Streisand) 2318点
⑤ビートルズ (The Beatles) 2316点
⑥ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 2279点
⑦ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 2055点
⑧マントヴァーニ (Mantovani) 1929点
⑨キングストン・トリオ (The Kingston Trio) 1772点
⑩レイ・コニフ (Ray Conniff) 1678点
《1955~1959年のトップ10アーティスト》
①フランク・シナトラ (Frank Sinatra) 1390点
②ジョニー・マチス (Johnny Mathis) 1178点
③マントヴァーニ (Mantovani) 1140点
④ミッチ・ミラー (Mitch Miller) 965点
⑤ハリー・ベラフォンテ (Harry Belafonte) 880点
⑥エルビス・プレスリー (Elvis Presley) 842点
⑦ロジャー・ウィリアムス(Roger Williams) 753点
⑧テネシー・アーニー・フォード 656点
(Tennessee Ernie Ford)
⑨パット・ブーン (Pat Boone) 619点
⑩ローレンス・ウェルク (Lawrence Welk) 609点
まず最初の表を見てみよう。「1955年~86年」の32年間を通算したこのチャートでマントヴァーニは8位にランクされているが、インストゥルメンタルの演奏は数少ないことに注目したい。聴きてにとってインパクトが大きいのは、やはり楽団演奏よりボーカルなのだろう。また米国人以外のアーティストは、マントヴァーニのほかザ・ローリング・ストーンズとザ・ビートルズに過ぎない。ザ・ビートルズが登場したのが1964年であったから、それ以前に英国人が米国の音楽市場を席巻した事例はマントヴァーニをおいてなかったのである。
特に「1955年~59年」のマントヴァーニの活躍は顕著だった。彼がゲットした得点の半分以上はこの期間のものである。
しかも、このチャートはすべてのジャンルを含んでいる。たとえば「1955年~59年」の18位にはチャイコフスキー・コンクールで優勝したヴァン・クライバーン(チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ほか)がチャート・インしている。ジャズの古典ともいえる「タイム・アウト」(「テイク・ファイブ」を所収)を演奏したデイブ・ブルーベックが20位に入っている。23位のマリオ・ランツァはクラシックのテノール歌手という多彩さである。
《ロングセラー・アルバム》
さらにジョエル・ホイットバーンはトップ40に60週以上チャート・インしたアルバムを「ロングセラー・アルバム」としてまとめている。
マントヴァーニのアルバムは、第7位に「フィルム・アンコール第一集(Film Encores Vol.1)」 (1959年~173週)、39位に「不朽の旋律(Gems Forever)」(1958年~95週)、100位に「シュトラウス・ワルツ集 (Strauss Waltzes)」(1958年~ 60週)が入っている。
ベスト3は「マイ・フェア・レディ」(オリジナル・キャスト盤 311週)、「オクラホマ」(サントラ 262週)、「ジョニー・マティス・グレイテスト・ヒッツ」(236週)である。マントヴァーニ以外の「ムード楽団」は、このチャートにはひとつもでてこない。強いてあげれば19位にイノック・ライト(Enoch Light)の「Persuasive Percussion」があるが、これは当時急速に普及したステレオ再生装置に対応した、多少マニアックなアルバムだった。
ロングセラー・アルバムとなるために必要な基本条件は、聴いていて飽きないことである。歌唱力が抜群なジョニー・マティス(Johnny Mathis) が3位に入っているのは、その意味で十分納得ができる。ミュージカルが上位を占めるのもステージの楽しさを繰り返し味わえるからであろう。
マントヴァーニの「フィルム・アンコール第1集」は、オーソドックスな演奏もさることながら、「慕情」「旅情」「ハイ・ヌーン」などのアカデミー賞受賞の映画主題歌を集めた親しみやすさから驚異的なロングセラーを続けた。一方、「不朽の旋律」には「トゥルー・ラブ」「踊り明かそう」「サマータイム」など往年のヒット曲が収められていて、誰でも耳を傾けたくなる魅力がある。もちろんこれらの曲には、マントヴァーニのトレードマークであるカスケーディング・ストリングスがちりばめられていることは言うまでもない。
このように、楽団演奏だけでロングセラーを続けた事例は希有といってよい。マントヴァーニが「ビルボード」に残した記録は空前絶後であり、今後とも破られそうにない。