都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
昨日病院へ行ってまいりました。
大変不本意ではありますが、当分の間休業することにいたしました。
みなさまには、ご迷惑、ご心配をおかけしますが、すぐに戻ってまいります。
昨年「市民文藝」に入選した作品の掲載許可が下りましたので載せておきます。
何卒よろしくお願い申し上げます。
したっけ。
都月満夫
私は、阿寒町と弟子屈町の区間、通称阿寒横断道路を、弟子屈に向かって、車を飛ばしていた。
一九六八年十一月の日曜日のことだ。季節外れの観光道路を走る車は、ほかに見当たらなかった。
私の車のヘッドライトだけが、黄昏の空を照らしたかと思うと、山蔭の暗い山肌を、スライドのように照らし出していた。
くねくねとヘビが進むようなカーブと、ジェットコースターのようなアップダウンが、激しく繰り返される道だった。ヘッドライトの向うに見える景色は、猫の目のように変わり続けた。
そのたびに、私は昂りと鎮静を繰り返す。
リアガラスは、後ろが見えないほどに埃にまみれていた。
何故、私がこんな季節に、こんなところを一人で車を運転しているのか…。
それは、二時間前に、作田恵子から家に電話があったからだ。
「ねえキミ、迎えに来てくれない?」
「え、いいけど…、何処に?」
「弟子屈の警察…。待っているわね」
それだけ言うと電話は切れた。理由などない。いつものことだ。それが、彼女だ。
近辺だと思ったら、弟子屈。弟子屈って急に言われても…と思ったが、私に選択肢は与えられていない。彼女は、待っていると言って電話を切った。直ぐに出掛けるしかない。
私と彼女の関係は、恋人というわけではなかった。親しい友達でもなかった。ただの高校のクラスメイトだった。
しかも、学校では、ほとんど話したことがなかった間柄だ。二人の恋人とも言えない、友達とも言えない、微妙な関係が始まったのは、二年前の、高校の卒業式のことだ。
私は、誰もいなくなった教室に居た。ぼんやりと外を見ていた。行く大学もない。当然就職先も決まっていない。この教室から出ていくのが怖かったのかもしれない。
「ねえ、キミ…。まだ居たんだ」
振り向くと、作田恵子が居た。いつもの彼女とは様子が違う。後ろで手を組み、もじもじしている。
「作田さん、どうしたんですか?」
「あ、まだ付いていた。よかった」
「何のことですか?」
「キミの、第二ボタン」
「え…、第二ボタン?」
「第二ボタン…、わたしにちょうだい」
突然の要求に、私は驚いた。
「僕の?」
「そう、キミの…」
当時、学生服の第二ボタンは、大切な人に渡すものだった。心臓に近いため、ハートを掴むという意味があった。
これは、詰襟学生服のはじまりが、軍服からだといわれていることによるらしい。
戦時中に強制的に戦争に行かされた若者たちが、もう二度と帰ってくることができないかもしれない旅立ちの日に、一番大切な人に思いを伝え、形見として、軍服の第二ボタンを渡していたそうだ。
そんな悲しい歴史が、戦後二十年を経て、今は卒業式のブームになっている。
何故、私なのだ? 彼女には、好きな人がいると思い込んでいたので、困惑した。
「何考えているの? 早くちょうだい。わたしだって、恥ずかしいんだから…」
彼女は珍しくうつむいて顔が赤くなった。
私も顔の血管が膨張するのを感じた。
「本当に僕の、…ですか?」
「そうよ、キミの…。ほかに誰がいるの? わたしじゃ、嫌なの?」
「そんなことは、ありませんけど…」
「じゃあ、ちょうだい」
この場合、渡してもいいのだろうか? 渡すってことは、好きだってことにはならないのか? どうしていいか、分からなかった。
「早く、ちょうだい」
「あ、はい…」
私は、催促されて、無意識でボタンを引きちぎろうとした。
「これで切りなよ」
彼女が、裁縫セットの小さな鋏を出した。
「ありがとう」
この場合、「ありがとう」が、適切だったかどうかは解らない。とにかく、ボタンを切り取り、彼女に渡した。
「嬉しい。大切にするね」
そう言うと、彼女は背中を向けた。大股で歩く後ろ姿が、弾んでいるように見えた。肩まである髪が揺れた。何が何だかよく分からない展開だが、私は、少し嬉しかった。
私はいつも、遠くから彼女を見ていた。彼女の周りには人が集まり、笑い声が絶えなかった。彼女はちょっと背が低いので、人の隙間から顔が見えた。両目は、『始め括弧』を横に二つ並べたように、いつも笑っている。
話の終わりに口を尖らすのが癖だ。話がウケた時は、顎まで突き出し、得意満面だ。それが、とても可愛い。
これは、彼女の告白なのか…。誰かに言ってみたかっただけの気まぐれなのか…。
今まで、彼女と話したのは、必要最低限のことでしかなかった。
突然の出来事だった。不可解な女心を、私が男として、初めて経験した瞬間だった。
こんなことを、女性は突然言うものだろうか? 彼女だけが、特別なのだろうか?
あっという間の出来事に、困惑していた。この行為が、良い判断だったのか、考える暇もなかった。
卒業後、私は何とか市内の会社に就職し、彼女は札幌の大学に進学した。
そして、私は彼女のことを、忘れていた。
その年の夏、多分夏休みだったのだろう。彼女から、家に突然の電話があった。
「作田です。元気?」
「え、作田さん? 恵子さんですか?」
「そうよ、わたし。今喫茶店にいるの。歩笑夢(ポエム)ってお店よ。おいでよ。待ってるわね…」
住所を言って電話は切れた。私の事情はお構いなしだ。
何なんだ。挨拶とか、ちょっとくらいの話があってもいいだろう。いったい何の用事なんだと思った。
しかし、この予想外の電話が、私は嬉しかった。卒業式の日のことが、突然よみがえった。あの時の彼女の顔を思いだした。
何だか分からないが、待っているというのだから、行くしかない。
その喫茶店は、ビルの地下にあった。私は何故か、静かに階段を降りた。どんな顔をして、待っているのだろう。恐る恐るドアを押した手が震えた。
「よう。早かったね」
ドアが開くと同時に、カウンターの端に、あの笑顔の彼女が座っていた。
「あ、作田さん…」
そう言うと私は、ぺこりと頭を下げた。
「ここにおいでよ」
彼女は、隣の席を指差した。私は言われるままにその席に座った。
「ところで、作田さん。今日は僕に、何の用事ですか?」
「あら、用事がなければ、キミを呼び出しちゃいけない?」
相変わらず、彼女は口を尖らせて言った。
「いや、そんなことはありませんけど…」
「じゃあ…、いいじゃない」
そう言うと、また笑顔になった。
日曜日の午後なのに、喫茶店は閑散としていた。ほかに客はいなかった。
「ねえねえ、ここはストレートコーヒーを出してくれるのよ。日本茶もあるわよ。わたしはお煎茶を飲んでいるの…。ねえ、ママ…」
ママと呼ばれた四十代くらいの女性が、微かな笑みを浮かべて、静かに頷いた。
長い黒髪に、黒っぽいワンピースを着ていた。半袖から伸びた腕は白く、とても艶っぽかった。薄化粧の落ち着いた大人の女性だった。作田恵子の、子供っぽい可愛らしさとは対照的だった。
ストレートといわれても…、私に豆の知識などある訳がない。喫茶店でコーヒーと注文すると出てくる、ブレンドコーヒーしか飲んだことがないからだ。そのくせ、生意気な盛りで、見栄を張りたい年頃だった。
「ブルーマウンテン…。お願いします」
分かりもしないのに言った。それしか知らなかったのだ。
「あら…。キミ、コーヒー分かるんだ。すごいじゃない」
「そんなことはないですよ。作田さん…」
暑いのに冷汗が噴き出た。
「ねえ、キミ…。その作田さんって言うの、やめてくれないかな。恵子でいいよ」
「恵子だなんて、そんな…。呼べませんよ」
「わたしが、いいって言ってるんだから、いいじゃない」
「そんな呼び捨てなんてできませんよ。恵子ちゃんでもいいですか?」
「作田さんよりはマシね」
それから二人はどんな話をして、どうなったのか覚えていない。
ママがアルコールランプに火を点け、サイフォンの沸騰したお湯を、優しくかき混ぜる姿が、とても美しかったことだけは、今でも覚えている。
後日、私はコーヒーサイフォンを買った。そして、いろいろなコーヒー豆を買っては、試してみた。アルコールは、薬局で書類に署名捺印をしなければ買えないことも知った。
その後、中華の店にも呼び出された。
「わたし、今中華のお店にいるの。唐点香ってお店。待ってるから…」
住所を言って、電話が切れた。
「夕飯はいらない」と母に言って家を出た。
その店はすぐにわかった。
「いらっしゃいませ」
胸に「唐点香」と、黄色い文字が書かれた赤いエプロン姿の彼女がいた。
「何しているの?」
「驚いた?」彼女は満面の笑みだ。
「アルバイト?」
「違うわよ。ここは昔から知っている店だから、ちょっとイタズラしてみたの」
彼女は、笑顔で、ぐっと顎を突き出した。
「この人は、恵ちゃんの彼氏かい?」
店主だろうか? 店のオバサンが聞いた。
「だったらいいんだけどね」
彼女はオバサンの方を向いて、肩をすくめてみせた。
「よせよ」私は困った顔で言った。
「ここに座ろうよ」
彼女が私の手を引いて、席についた。
「五目あんかけ焼きそば、美味しいのよ」
「そうなの…」
と言いながら、私はメニューを開いた。
「五目あんかけ焼きそば二つね」
私に選択の余地はなかった。
「本当に美味しいんだから…。キミも、きっと気にいるよ」
彼女は、ニコニコして私の顔を見ていた。
「はい、どうぞ。お待たせしました」
焼きそばが出てきた。
「美味しいよ。食べなよ」
私は箸を割り、麺を持ちあげようとした。麺はパリパリに固まっている。
「駄目よ。アンが絡まって麺が柔らかくなってから食べるのよ」
そういわれてアンを見ると、たくさんの具が入っていた。豚肉、むきエビ、きくらげ、白菜、パプリカ、人参、たけのこ、うずらの卵などが入っていた。
「これは五目じゃないね。八目だよ」
「あら、数えたの? キミらしいね」
彼女は私の顔を見て、首をすくめて、プッと吹き出すように笑った。
それは、本当に美味しかった。それからしばらく、五目あんかけ焼きそばにハマっていたことを覚えている。
「ねえ、七夕見においでよ。広小路の西二条側で待っている」
それだけ言って電話が切れた。また、一方的な呼びだしだ。出かけるしかない。
私は、当時流行っていた、白いワイシャツを半袖にした「ホンコンシャツ」というシャツを着て行った。袖の切り口の、V字に割れた部分を、まくるのがお洒落だった。当然、私はそうしていた。
彼女が、あの笑顔で、白に藍の桔梗柄の浴衣を着て待っていた。赤い鼻緒が、色白の小股に切れ込んでいた。藍の鼻緒だと、もうちょっと、大人に見えたかもしれない。
私を見つけると、飛びついてきて、私の左腕を抱きしめた。勿論、あの笑顔だ。
浴衣の、身八つ口から覗く胸の横が、私の腕に微かに触れる。温かくて、柔らかい。とても気持ちがいい。
雑踏の中で我に返る。女性の胸に触れている自分に赤面する。もっとこのままでいたいと思う自分が恥ずかしい。私は狼狽えながら離れた。
「ねえ…、恥ずかしいの? 顔が赤いよ…。私、初めてなんだ、男の人と七夕見るの…」
「僕だって、初めてですよ」
彼女はしなやかに身を寄せ、私の腕を、また抱え込んだ。
私は無理に腕を動かすわけにもいかず、緊張していた。私の全神経は、左腕の二の腕に集中していた。この柔らかさと温かさは、私の胸をときめかせ続けた。
ぶらぶらと大通りまで歩いた。女性の肌の温もりとは、こういうものなのか。とても気持ちがいい。一方では、そんな気持でいる自分が恥ずかしくて、誰かに見られているのではないかと、落ち着かなかった。
どんな会話をしたのか、どんな飾りがあったのか全く覚えていない。
他にも何回か呼び出されたことがある。いつも、突然の電話で彼女が私を呼びだし、私は飛び出し、彼女が笑顔で待っている。
私は彼女の話をボーッと聞いている。話をする彼女の笑顔が、私は大好きだった。
しかし、第二ボタンの話や、好きとか嫌いという話は、一度もした記憶がない。
私にとって、彼女は好きになってはいけない人。当時は真剣にそう思っていた。
彼女は、建設会社の社長の一人娘。彼女か彼女の夫は、将来会社を継ぐだろう。
私はサラリーマンの長男だ。父が両親と暮らしているように、私もそうするだろう。彼女と私の将来は両立できない。だから、自分から連絡はしない。自分から連絡すると、本気になってしまいそうだったからだ。それが怖かった。
彼女は大好きな人だが、現実的には好きになってはいけない人だと、自分に言い聞かせていた。
私にとって、彼女は、魅力的で可愛いアイドル(偶像)なのだと思うようにしていた。
弟子屈に着いたときは、もうすっかり日が暮れていた。七時前後だったと思う。
国道二四一号線から、街の中に入っていくと、警察署はすぐに見つかった。
私は車を降りて、大きく腕を伸ばし、息を吸った。静かに息を吐いて、一度屈伸をしてから玄関に入った。
右手に受付があった。私は名前を言い、作田恵子さんを迎えに来た者だと告げた。
受け付けの警察官が、私を生活安全課に案内してくれた。
生活安全課の警察官に引き継ぎをして、案内してくれた警察官が出ていった。
そこには、白髪交じりの警察官がいた。
私は衝立の向うに案内された。
彼女が、くたびれたソファーに、ちょこんと座っていた。私の顔を見ると、満面の笑顔になった。
そして、口を尖らせてこう言った。
「遅いよ、キミ…」
「ごめん…」
どうして私が謝るのだ。でも、彼女の笑顔を見てホッとした。この調子なら大丈夫だ。
警察官が私に言った。
「君が彼氏君ですか? ま、これは余計なお節介ですが、ちゃんと彼女を捕まえておいてください。何があったかは知りませんが…。それと、警察が保護した関係で、引取り人の君に、ここに署名と拇印を、お願いします。一応身分確認に、免許証も見せて貰います」
私は書類に署名し、拇印を押した。
緊張の糸が切れた私は、膀胱が破裂しそうなことに気が付いた。
トイレを借りて部屋に戻ると、警察官が私の耳元で囁いた。
「女心は、なかなか難しいですよ。私はいまだに理解できないでいます。彼女を叱ってはいけませんよ。黙って話を聞いてあげてください。いいですね」
完全に勘違いをしているようだ。そう言ってから、大きな声で言った。
「お茶でも一杯飲んで、少し休んでいきなさい。事故でも起こすといけませんからね」
淹れてくれた番茶を飲んでから、警察官にお礼を言って、私たちは帰路についた。
「遠いけど、釧路廻りで帰るよ。あの道を帰るのは、もう御免だよ。暗くなったし、危ないから…」
「どっちからでもいいわよ」
「ところで、何故弟子屈にいたの? 僕を彼氏って言ったの?」
「わたしね、何処かに泊まるって言ったんだけどね。お巡りさんが、『誰か迎えに来てくれる人はいないのか?』って聞くのよ。自殺志願者と思われたみたい。それですぐに、キミのこと思い出して、電話しちゃった」
私の質問とはまるで違う答えだ。
「あ、そうなの…。僕の聞いたのは、そうじゃなくて…」
「あ、彼氏ね。迎えに来る人を、彼氏って言わなきゃ何て言うの? 変じゃない。ただの友達じゃ信じてもらえないと思って…。それから、私がどうして弟子屈にいたかって…」
私は「そうだよ」と頷いた。
「摩周湖の歌あるでしょ。霧で星も見えないとかっていう…」
「流行っていたの、高校生の時じゃない?」
「それが、ラジオから流れてきたら、急に見たくなったのよ。なんか、とても切ない気持ちになっちゃってさ…」
彼女の顔が、少し寂し気に見えた。
「そうか…。でも、普通はそれだけでは、来ないでしょう」
「私バカだから、思いついたら何にも考えずに行動しちゃうでしょ。気が付いたら弟子屈にいたの」
「え、本当に、それだけで来ちゃったの?」
「そうよ。道が分からないから、タバコ屋のオバサンに聞いたわ。『摩周湖はどっちですか?』って…。
『今頃摩周湖へ行きたいのかい? もう誰も行く人はいないよ。バスも夏の営業終わったしね』
オバサンは怪訝な顔をして言ったわ。
『どっち?』 もう一度聞いたわ。
『そこの角を左に曲がったら一本道だけど、歩いて行くには遠いよ。二時間はかかるよ。やめた方がいいよ』
私は、オバサンが言い終わる前に歩きだしていたの。一時間くらい歩いたら、道はだんだん上りが急になってきたわ。歩きながら、自分が本当に、摩周湖に行きたいのか、分からなくなってきた…。
暗くなってくるし、車も通らないし、心細いし、寒いし、雪がちらちら降ってくるし、あとどれくらい歩けばいいのかも分からないし、もう戻るわけにいかないし…。寂しくなって、心が凍えてきたのよ。
誰もいるわけがないのに、たまらなくなって振り向いたの。そしたら、遠くに赤いランプが、クルクル回っているのが見えた。それが、みるみる近づいてきた。パトカーが停まって、お巡りさんが降りてきた。私は、駆け寄って、お巡りさんに飛びついちゃったわ。子どもみたいに、エンエン泣いちゃった。タバコ屋のオバサンが、警察に連絡してくれたみたい。それで、お巡りさんに保護されて、こうなったのよ」
彼女は手で涙を拭いた。
「見ないでよ。恥ずかしいから…」
そう言って、無理に笑顔を作って見せた。
「それでね。わたしがキミに電話をして、待っている間、お巡りさんが聞くのよ」
「何を…」
「どうして、こんな時期に摩周湖に来ようと思ったんですかって…」
「そうだろうね。普通は聞くと思うよ。こんな時期だからね」
「だからわたし、理由をいったわよ。でも信じてくれないのよ。それだけですかって…」
「恵子ちゃん、それは無理だよ。普通は、なかなか信じてくれないだろうね」
「でも、キミは信じたじゃない」
「僕は、恵子ちゃんがどんな人か、少しは知っているからね」
「それから、キミに電話したときも、『そんな電話で迎えに来るんですか? もう一度掛け直して、ちゃんとお願いした方がいいですよ』っていうのよ。掛け直したって、いないわよ。もう、こっちに向かっているわよって言ったら、信じないのよ」
「そうだろうね。お巡りさんは、恵子ちゃんが失恋したと思っているし、そんな相手にあんな電話じゃね。僕のことを恋人って言ったんだろう?」
「お巡りさんは、困った顔をしていたわ」
「それはそうだろう。そのお巡りさんは、この娘を、今晩どうしたらいいのか、考えてたんだろうね。きっと僕が来ないと思っていただろうから…」
「そんな心配しなくていいのに…」
「いや、心配するよ」
「でも、キミは来たじゃない」
「そうだけどさ…」
「そうでしょう」
「理由も言わずに、いきなり弟子屈に迎えに来てと言われたら、来るしかないじゃない」
九時近くに釧路についた。
「全部話したら、急にお腹がすいちゃった」
「そうだね」
駐車場のある店を探して、ラーメンを食べた。麺が細くて、ソーメンみたいだった。その頃は、釧路ラーメンの情報などなかった。今のように、グルメ雑誌や、地図にそんな情報は載っていない時代だ。
「細い麺だね」
「本当だね」
「スープも、あっさりしてる」
二人で驚いたことを覚えている。
ラーメンを啜ると鼻水が出て、二人で洟をかんで笑った。
店を出て、また彼女が話し始めた。
「札幌で、一人で部屋にいた冬の夜。私ここで何してるの? って思ったことがあるの。寂しくてさ、なんか物足りないのよ…」
「大学に通って、友達もいたんだろう?」
「違うわ…。そういうことじゃないのよ。キミには解らないかな…。この膨らんだ胸が、何故か虚しいのよ。どうしてオッパイなんかできたんだろう」
彼女の顔から笑みが消えた。
「女性が大人になると、オッパイができるのは、当たり前じゃないか」
「そういうことじゃないのよ。私が女子として、思い描いていたのとは違うのよ」
「女子としてか…」
「そうよ。女子としてよ。やっぱり、キミには解んないか…。解んないよね」
「男子だからね」
「バ~カ」
彼女の顔が、ちょっと笑顔になった。
「それでさ、十一時ころ、近所の公園に行ったのよ。そこで、二つ並んだブランコが揺れていた。さっきまで、誰かが乗ってたのね。恋人同士かな…。私も隣のブランコを揺らして乗ってみた。ちっとも楽しくないのよ。当たり前よね。そうしてたら、雪がチラチラ降ってきたの。ブランコが空に向かって飛び出すと、暗い空から雪が湧いてくるように見えて、楽しくなってきた。顔に当たる雪も、冷たくて気持ちがよかった。子供のようにはしゃいでしまった」
「そうだね。僕も経験がある。空を見上げると、雪空の中に吸い込まれるような錯覚をするよね」
「ちょっと違うな。火照った顔が雪で冷やされて、さっきまでの、モヤモヤを忘れたの。そうしてたらね、お巡りさんが来たの。『お嬢さん、もう、遅いから早く帰んなさい』だって…。子ども扱いよ」
「恵子ちゃん、可愛いからね」
「キミさ、成人映画って見たことある?」
「急になんだよ…。見たことはあるよ。あ、わざわざ見に行ったわけじゃないよ。お客さんが招待券をくれるんだよ。若いから研究しろなんて、冷かしてさ」
「わたしね、成人映画で、初めて総天然色の意味がわかった。あれって、その場面だけ天然色なのよね」
今どき、わざわざカラーなどという映画はない。当時はカラー映画の出始めで、「総天然色」は、大事な宣伝文句だった。
「どうして、そんな映画見に行ったの?」
「なんとなく…。だって興味あるじゃない」
「へーっ、そうなの…。女子なのに…」
「そうよ、悪い? あ、キミ変な想像してない。嫌だ、違うわよ。ただの興味よ。本当だってば…。そしたらね、途中でオジサンが、私の肩をトントンして、外に出ろと合図したの…。変な人かと思って、ちょっと怖かったけど出たわ。なんて言ったと思う。『君はどこの中学ですか?』だって。児童指導員の人だったの。私、学生証見せたわよ。私ってそんなに子供っぽいかな。女として魅力ないかな…」
「そんなことはないよ。十分魅力的だよ。」
もう、幕別を過ぎたころだった。
「キミさ、モーテルって知ってる?」
モーテルとは、車が部屋の前までつけられる、車用の連れ込み旅館のことだ。モーテルという名前と設備の新しさが、時代にマッチしたのだろう。当時、次々に建てられ、若者はこぞって車を買った。
「何言ってるの? 恵子ちゃん」
「キミ、入ったことある?」
「ないよ。ありませんよ」
「ないの? わたしもないのよ。じゃあ、入ってみようか?」
「恵子ちゃん、モーテルがどういうとこか、知ってるの?」
私の心は、その年の五月に起きた、十勝沖地震のように、激しく揺れた。当然だろう。こんな誘いを受けて、動揺しない男はいないと思う。
「あれ、なに慌ててるの? 冗談よ。冗談に決まってるじゃない」
急に、車内の空気は密度が濃くなり、息苦しくなった。会話は途切れてしまった。
あれから四十年後…。定年を迎える歳になり、クラス会が開かれ、私たちは再会した。
「よう、元気だった?」
恵子ちゃんは、最初に喫茶店で会った時のように、笑顔で声をかけてくれた。
「ここにおいでよ」
彼女は、隣の席を指差した。私は言われるままにその席に座った。
彼女の夫は建設会社の社長になり、私は父を亡くしたが、母親と暮らしている。
それから、毎年一度、クラス会は八月に行われるのが恒例となった。
今日は五回目のクラス会だ。
今、私たちは二次会で、ステージがある大型カラオケスナックにいる。私たちは、バブルという華やかな時代を生きてきた。そのため、八トラックから始まったカラオケブームの中、宴会や接待で鍛えた咽が自慢の芸達者ばかりだ。
私はお酒が飲めないが、彼女はかなりご機嫌で、出来上がっていた。
「キミぃ~。私とデュエットするよ」
「恵子ちゃん、大丈夫なの?」
「わたしは~、酔ってはぁ~、いませ~ん」
立ち上がると、彼女は足元がふらついて、私の左腕にしがみついた。私は彼女を抱きかかえるようにして、ステージに上がった。
「お前たち、そんな仲だったのか?」
誰かが冷やかした。
彼女は、マイクのスイッチをオンにした。
「そうよ。今頃気づいたの? あなた達、鈍いわね。もっと早く気づいてほしかったわ」
その声が店中に響き、大爆笑となった。彼女は、満面の笑顔で、私の顔を見上げた。もちろん、顎をぐっと突き出した。
※この作品は第五十五号帯広市民文芸に掲載されたものです。