左遷(読み)サセン [名](スル)《昔、中国で、右を尊び左を卑しんだところから》低い地位・官職におとすこと。左降。「閑職に左遷される」 デジタル大辞泉の解説 |
901年(延喜元年)のこの日、右大臣・菅原道真(すがわら の みちざね)が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された。 |
897(寛平9)年、宇多天皇(うだてんのう)は、息子の醍醐天皇(だいごてんのう)に譲位します。
その際、くれぐれも菅原道真を引き続き重用するようにと醍醐天皇に伝え、自身は仏教を深く信仰する日々を送ります。
醍醐天皇のもと、藤原時平は左大臣に、そして菅原道真は右大臣になります。
宇多上皇の猛烈な後押しもあったのでしょう、学者が右大臣になるなんて、吉備真備以来の大出世です。
右大臣と左大臣ってどっちが偉いの? 左大臣と右大臣、ズバリ地位が高いのは左大臣。 朝廷での、官職での順位は「太政大臣→左大臣→右大臣」。 でも太政大臣は適任がいなければ空席でも構わないので、常駐の地位のトップは左大臣になります。 |
この大出世が人々のねたみを買ってしまったのか、やがて次のような黒い噂が流れるようになります。
菅原道真は、醍醐天皇を天皇の座から引きずり下ろし、斉世親王(ときよしんのう)を即位させようとしている。
斉世親王というのは醍醐天皇の弟で、菅原道真にとっては娘の結婚相手です。
つまり、菅原道真は、醍醐天皇にかわって娘の旦那を天皇にしようとしている、という噂が朝廷に広がってしまったのです。
おそらく噂の発信源は、菅原道真の排斥をねらう藤原時平でしょう。
教科書などには、「藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真は左遷された」なんて書かれています。
讒言(読み)ザンゲン [名](スル)事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。「讒言されて不遇の身となる」 デジタル大辞泉の解説 |
この黒い噂を、若い醍醐天皇は事実にちがいないと受けとめ、菅原道真を「大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)」に左遷してしまいます。
大宰の権帥(読み)だざいのごんのそち 令外の官である権官(ごんかん)の一つ。正官である大宰帥(だざいのそち)に代わって政務を執る。納言以上の者あるいは前官を任じた。その臨時の性格から左遷時に任ぜられることがあった。 ※日本後紀‐弘仁元年(810)九月丙辰「四品阿保親王為二大宰権帥一」精選版 日本国語大辞典の解説 |
つまり、「大宰権帥」は大宰帥に次ぐ役職、大宰府におけるナンバーツーなのです。
といっても、中央でばりばり働いていた菅原道真にとって、この人事は完全なる左遷です。
これを知った宇多法皇(上皇が出家すると法皇(ほうおう)となります、宇多法皇はこのころ出家済み)は、すぐさま左遷を撤回するよう醍醐天皇を説得しようとしますが、
醍醐天皇から面会を拒否されてしまいます。
醍醐天皇にとって、菅原道真を推奨する父宇多法皇は煩わしい存在だったのかもしれません。
醍醐天皇の宇多法皇に対する反発心が、菅原道真の左遷を決定的にした、とも考えられます。
結局、菅原道真の左遷はくつがえされることはなく、さらに4人の息子たちにも流罪が言い渡されてしまいます。
901(延喜元)年1月25日、菅原道真は大宰府へと向かいます。
平安京を離れる際に詠んだのが、有名な次の和歌です。
東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ (「春な忘れそ」の部分を「春を忘るな」とする書物もあります)
春になって東の風が吹いたなら、梅の香りを私のもとまで届けておくれ。 主人がいないからといって、春を忘れてはいけないよ。 |
梅を愛する菅原道真が、自宅の庭にあった梅の花との別れを惜しんで詠んだものです。
どうやらその梅も菅原道真のことを愛していたようで、一晩のうちに、菅原道真が住む九州の屋敷の庭まで飛んできた、なんていう「梅(とびうめ)伝説」のこっています。
903(喜3)年2月25日、菅原道真は平安京に戻ることを許されないまま、59歳で大宰府で亡くなります。
藤原時平としては、宿敵が完全にいなくなってこれ以上ないほど喜ばしいことです。
左大臣として、これからますます勢力的働こうというところです。
しかし、ここから朝廷は道真の怨霊に悩まされるようになります。『北野天神縁起絵巻』などによれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたといいます。
そして立て続けに、怪死事件が発生します。
908(延喜8)年、菅原道真の元弟子でありながら師を裏切った藤原菅根が雷に打たれて落命。
翌年909(延喜9)年藤原時平は、39歳の若さで病死してしまいます。
また913(延喜13)年には、源光(みなもとのひかる)という人物が、鷹狩りの最中に泥沼へ落ちて溺死します。
彼は藤原時平と手を組んで菅原道真を排斥し、菅原道真にかわって右大臣に就任した人物だったのです。
ちなみに、彼の遺体は泥沼のなかから見つかることはありませんでした…
923(延喜23)年、醍醐天皇の息子である皇太子・保明親王が病死します。
彼の母親は、藤原時平の妹です。
つまり、藤原時平の甥っ子にあたる人物が、21歳の若さで亡くなるのです。
かわって、亡き皇太子の息子(醍醐天皇の孫)を皇太子(皇太孫)としますが、
2年後、わずか5歳でこの世を去ってしまいます。
次々と続く関係者の死に、人々は「道真公の祟りだ」と噂しました。醍醐天皇も道真を左遷させたことを後悔し、道真を右大臣に戻す詔を出して、その霊を鎮めようとします。しかしそれでも怪異はおさまらず、さらに衝撃的な事件が起きるのです。
なんだか不気味なことが続きます。
菅原道真を左遷させた張本人たちが、次々と亡くなるなんて…
しかも、これだけでは終わりません…
極めつけは平安時代の930(延長8)年6月26日、都で干ばつが続いていたため、朝廷では雨乞い(あまごい)をおこなうかどうかの会議をしていました。
すると、突然黒い雲が平安京をおおいつくし、平安京内裏の清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貫が死亡し、他にもたくさんの死傷者が出ました。
清貫は菅原道真の大宰府左遷に関わったことから、道真の怨霊が雷となって恨みを晴らしたとうわさされた。
さらに、それを目撃した醍醐天皇は体調を崩し、3ヶ月後に亡くなってしまうのです。
京都にある北野天満宮(きたのてんまんぐう)が所蔵する、国宝の「北野天神縁起絵巻(きたのてんじんえんぎえまき)」には、朝廷に雷が落ちたシーンが描かれています。
黒い雲のなかに、稲光をまとった赤い鬼が描かれているのが分かります。
これは一体誰なのでしょうか…
そう、菅原道真です。
菅原道真は無実だったのに大宰府へ左遷されて可哀想。きっとこの世に恨(うら)みをいっぱいのこして死んだから、怨霊(おんりょう)になって人を呪い殺したり、雷を落としたりしているに違いないと人々は考えたわけです。
朝廷もおそれおののき、菅原道真の罪を赦(ゆる)して高い位を与えたり、流罪となっていた彼の子どもたちを平安京に呼び戻したりします。
それでもなお恐怖は募ります。
そこで、京都(京都市上京区)には北野天満宮(明治時代から一時期、北野神社と改称)を建て、菅原道真を雷の神「天神様(てんじんさま)」として祀(まつ)り、祟(たた)りを鎮めようとします。
清涼殿落雷事件があった6月26日は「雷記念日」とされています。 昔はゴロゴロと鳴ると「くわばら、くわばら」と唱えました。道真の怨霊は都に何度も雷を落としましたが、領地の「桑原」には雷が落ちなかったといわれ、地名が雷や厄をよけるまじないになったとか…。 |
※菅原道真の墓所(福岡県太宰府市)は太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、漢字注意!「太」宰府)です。 |
このように、人々を脅(おびや)かす怨霊をおそれ、それをお祀りすることで怨霊を慰めようとする信仰を、「御霊信仰(ごりょうしんこう)」といいます。
なかでも菅原道真をお祀りすることは、とくに天神信仰(てんじんしんこう)と呼びます。
また、怨霊を慰めるためにおこなう法要やお祭りを、「御霊会(ごりょうえ)」といいます。
日本三大祭りの1つである、大阪の天神祭(てんじんまつり)も御霊会の1つです。
菅原道真が2月25日に亡くなったことから、月命日にあたる7月25日を中心に、毎年大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)でおこなわれています。
現在では、菅原道真が怨霊とおそれられたことはすっかり忘れ去られ、彼がすぐれた学者であったことから「学問の神さま」として信仰されるようになっています。
もし、左遷されていなかったら菅原道真は学問の神さまとして祀られることはなかったのかもしれません。
したっけ。
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海鳩
―潮騒が希望だったー
ぐしゃぐしゃに砕かれた大顎の破片が散乱し
ているのは知っていたがここのものではない
さんざん悪質を通過しなお何ものとも繋がら
ない兵器的非感覚の海を死生の循環の内へと
流し込むなど可能かぶふぅィ暫し棘状の海塚
にうずくまりわたしたち固有の肉体がはぜる
記憶のふあんに堪える堪えて噛む海鳩が翔ぶ
〈母ァさん 母ァさん〉
あなたさえ答えようもないのです
(後略)
名を聞くだけで東風吹かば・・・
この歌がすぐ思い浮かびました。
ですが、確かに左遷が無ければ、
これほどまでには菅原道真は崇められなかったかもしれませんね。
妄信、疑心、不信・・・人の心には醜いものがありますね。
地位の上下に関わらず。
人生とは皮肉なものです。
左遷がなければ、あの歌も残さなかったでしょうし、学問の神とはならなかったかもしれません。
地位にこだわる人間の心の醜さは、今も昔も変わらないのかもしれません^^
したっけ。
まさに事実は小説より奇なりを絵に描いたような
人生、出来事ですね。
映画にしたらよさそうです^^
太宰府天満宮の40代目の方、とても優秀な方と聞きました。
穏やかなお顔、お話が印象的でした(^^)
道真にしたら、身に覚えのない罪で左遷されたのですから、その心情は察するに余りあります。
道真の死後に起きる怪事件の数々。
当時の人は祟りだと恐れたのが分かりますね。
そんな、ドロドロしたことなどなかったように、今は学問の神様となっています。
人の運命は予測不能ですね^^
したっけ。
それにしても流罪になった子供たちが可哀そうですね。
当時の流罪は大変だったでしょうね。
当時の辺境の地や島がどんな環境だったのか分かりませんが、大変だったのでしょうね。
奈良時代から平安時代にかけて、伊豆には多数の政争に敗れた貴族た. ちが流されていたそうです^^
したっけ。
左遷の声聞くことなく終えて欲しいと内は願うのみです。
左遷には懲罰的な意味合いもありますからね^^
したっけ。