以前、べったら市の調べものしていた時、大伝馬町付近に幕末「藤問屋」というものがあった。今でも繊維関係の業者が多いので藤問屋とは何かと、中央区の中央図書館郷土室の人に聞いたことがあった。この藤問屋は明治10年頃にはすべて消えてしまった。どこかに移転したかと思ったが結局何の問屋か不明だった。しかしあるとき藤が藤細工のことと判明し、本町付近にあった薬種問屋(江戸時代は砂糖が薬種問屋の扱い品目だった)に大坂から江戸へ藤かごに入れて砂糖を運搬していたことを知った。この藤かごを水に浸し、藤にしみ込んだ砂糖分を煮詰め水飴にしていたという。さらに残った砂糖分の抜けた藤を集め藤細工に加工していたという。つまり幕末に大伝馬町付近にあった藤問屋は砂糖関連業者であった。明治に入って直接横浜の中国商人から東京に入った砂糖は安価となったため、2次加工の手間代が無くなり、藤問屋が消えたと想像できる。
天明年間、佐渡奉行から長崎奉行へ転任となった戸田氏孟は幕府から長崎上納金増額を指示されていたようで交易改革を目指したようだった。オランダや中国からの貿易船から日用と言われる人足によって砂糖が運搬されていたが藤かごからこぼれ落ちた砂糖の利権で長崎商人と対立したようだ。既得権を保持したい長崎商人、オランダ商人、中国商人との間で摩擦が生じたようだ。
天明4年新任の長崎奉行戸田はこぼれ落ちた砂糖を売ることは日本の恥と考え、砂糖のこぼれ落ちた分を定量化し、日用という日雇い労働者の雇用の安定化を図った。既得権益を阻害された関係者の恨みをかっていたようだ。貿易量が半減とした政策で密貿易が増えていた時期で戸田が死去した当時から暗殺の噂があった。