船橋市史 近世編 67頁
ここに船橋市八木ヶ谷を知行地としていた旗本長井家の代々の名前がある。天保7年、戸田主膳が殺されたとき、長井家の当主は長井昌純(天保9年死去)だった。長井十五郎、長井五右衛門とも名乗っていたようだ。この昌純は夏場に死去した可能性がある。長井五右衛門昌言は昌純の娘と結婚し、養子となった。しかし戸田主膳の孫に当たる昌言が結婚したのはもっと後のときで(安政年代か)、の呪いは後のこじつけた噂話である。
戸田桂三郎(氏栄3男)が筒井政憲の世話で養子となり、長井五右衛門昌言となった。筒井政憲が死去したのが安政6年のことである。長井五右衛門昌言が維新史に出てくるのが文久元年10月小姓組番として始めて出てくる。つまり養子になった後の話となる。維新史を調べている学者が長井昌言の経歴が不明と書いてあるのはこのような事情から説明できる。船橋市史(1998年出版)でも長井昌言は養子か実子か不明と書いてあった。
出典 明治のおもかげ 鶯亭金升著
鶯亭金升は長井昌言の長男で本名は長井総太郎である。
ここに船橋市八木ヶ谷を知行地としていた旗本長井家の代々の名前がある。天保7年、戸田主膳が殺されたとき、長井家の当主は長井昌純(天保9年死去)だった。長井十五郎、長井五右衛門とも名乗っていたようだ。この昌純は夏場に死去した可能性がある。長井五右衛門昌言は昌純の娘と結婚し、養子となった。しかし戸田主膳の孫に当たる昌言が結婚したのはもっと後のときで(安政年代か)、の呪いは後のこじつけた噂話である。
戸田桂三郎(氏栄3男)が筒井政憲の世話で養子となり、長井五右衛門昌言となった。筒井政憲が死去したのが安政6年のことである。長井五右衛門昌言が維新史に出てくるのが文久元年10月小姓組番として始めて出てくる。つまり養子になった後の話となる。維新史を調べている学者が長井昌言の経歴が不明と書いてあるのはこのような事情から説明できる。船橋市史(1998年出版)でも長井昌言は養子か実子か不明と書いてあった。
出典 明治のおもかげ 鶯亭金升著
鶯亭金升は長井昌言の長男で本名は長井総太郎である。