年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

『明治のおもかげ』を読む2

2013年03月22日 | 宅老のグチ
『改進新聞』の社主寺家村逸雅さんの祖先の話がある。今の広島県の寺家という村の出身で身体障碍者であった。この寺家という地名は今の広島県東広島市寺家という地名がある。
 江戸時代身体障碍者から借金したとき、その返済が不能になったとき、奉行所は借りた人を犯罪者としたようだ。つまり一般人のところから借りるより返済義務が重かった。逸雅の祖先は返済不能ということであきらめていた証文を引き受け、障碍者からの借金として奉行所に届け出たため、あわてた借主は周囲から金をかき集め返済したという。回収した金を証文の主に返し、手数料をもらい、財を成したという。
 鶯亭金升は明治24年ころから『改進新聞』の記者として記者生活を始めるのだが、投書家として籍を置いていた,團團珍聞社主野村文夫と親しく、野村が改進党系であり、広島県出身ということもあり改進新聞の記者となったと思われる。
有喜世新聞という小新聞から改進新聞となったのだが庶民の読者を引き付けるため、読み物が必要だった。ここに明治の初めの新聞を見ると絵付きの戯作が大新聞(政治を論じる)を除くと掲載されている。歌舞伎情報もその中に含まれていて、酒悦主人が5代目菊五郎と付き合っていたという話は必要性があったかもしれない。池の端薬舗守田宝丹主人は明治の近代広告の先導者で同じ町内の酒悦が影響を受けても当然である。
コメント
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