戸田氏栄の3男である長井五右衛門昌言が中里新十郎仲舒の呪いで夏に死亡したと噂があったことが気になった。以前五反田本立寺の墓地で長井家の墓を見たのだが、没年が風化で薄れていて明治6年2月か11月だろうと見えた。この没年の時期の問題は自由民権運動で活躍していた花香恭次郎(氏栄5男)が横浜にいた時期を想定できる。花香恭次郎の親族として何かと援助を与えたのがおじの長井昌言で明治5年から6年頃は工部省鉄道局大録の職を得ていて新橋横浜間の鉄道開設業務に関係していた。
『演劇研究』の小山郁子さんの鶯亭金升研究(1)によると亡父(長井昌言)の17回忌を明治22年10月24日に無事済ましたと書いてある。ということは墓碑の摩滅した年月日は11月と見たほうが妥当である。どうやら小山女史は日記を全部見たようで、出版された『鶯亭金升日記』には17回忌のところがない。花香恭次郎がコレラで亡くなったのが明治23年8月8日で中里仲舒の呪いはこのことかもしれない。
『演劇研究』の小山郁子さんの鶯亭金升研究(1)によると亡父(長井昌言)の17回忌を明治22年10月24日に無事済ましたと書いてある。ということは墓碑の摩滅した年月日は11月と見たほうが妥当である。どうやら小山女史は日記を全部見たようで、出版された『鶯亭金升日記』には17回忌のところがない。花香恭次郎がコレラで亡くなったのが明治23年8月8日で中里仲舒の呪いはこのことかもしれない。