年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

汐待ちの行徳

2018年05月01日 | 福神漬

近世利根川水運史の研究/渡辺 英夫著から

水戸藩の藩領地から江戸の藩邸まで必要物資は利根川水運を使って運び込んだようだ。

江戸と行徳を結ぶ小名木川で汐待ちで停泊すれば、密輸送の疑いが薄れる。藩船や農民等の船でも自己荷物の輸送・販売し収入を得ていた。この情報を浦賀奉行所の与力中島三郎助は知っていたのだろう。水戸藩の印を掲げれば浦賀の船は便利となる。

 中島三郎助文書の附書で浦賀での塩問屋援助の経緯がわかったこれで行徳の漬物業者との接点が見えた。だだ武士でない人たちの記録は中島三郎助文書には出てこない。士族とそれ以外は記録に残らないのだろうか。行徳で生産された塩の品質は瀬戸内で生産された塩に比べて品質が悪く、ニガリ分が多い。ただニガリは豆腐作りには必要で行徳の塩を再精製してニガリを必要とするところもあったようだ。

 明治の終りに塩が専売となり浦賀の塩業者が消えてゆく。

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