雨の日はたまりに溜まった漬物の資料をやっと整理して記録を見直し。どこを見直しどこを再度調べるかも始まる。15年以上築地の仕事で虫食い状態となった資料から、ようやく方向性が見えてきた。
そんな時、大日本近世史 史料 諸問屋再興調 第一巻を読んでいる。この本は天保の改革で問屋制度が破壊され再興するための過程の史料である。函館の五稜郭付近で戦闘死した千葉行徳の漬物商人がなぜ幕府出入りの商人から浦賀与力の人たちと一緒に行ったのかを調べるとき、塩問屋の再興があったとみている。塩の流通が天保の改革で乱れ、問屋再興でも浦賀の塩商人が混乱していたようだ。この件で中島三郎助が塩商人を援助したことから明治以後、三郎助の遺子の支援を浦賀の塩商人たちがした。さらに浦賀ドックの設立にも塩商人の出資があったという。この塩に関することと行徳の塩との関係が何かあったと思う。さらに関東河川舟運において水戸藩の旗は重要で中島と水戸藩の造船関係の提携で旗の使用の黙認があったと思われる。この文献がまだ見つからない。
漬物用の塩の品質は醤油や味噌の塩より厳しくない。上等の塩を適切に販売するには下等の塩の消費先を確保しなければならない。