年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

やっと記録がみつかったが

2019年07月26日 | 福神漬

 

過去の記録を整理していた、ほしいものがあった。ただどこの記録か不明なので出典を探さねば。

 

西浦賀塩取り扱いについて

庶民生活の基本たる必需品として,米、塩、油あり、これを三役とよび、禁制品として、巷間売買を許されなかった。(米は浦賀で集散、塩、油は浦賀を素通り。)江戸に在貨豊富なれば相場暴落、産地品少なかれば暴騰す。この均衡をとるため海関にて統制する。海関、下田より浦賀に移転当時、東浦賀では干鰯肥料の専売を扱い、房総一円からの出荷を集め、大干鰯倉庫として二町余の大倉庫を建て、肥料供給の全権を握って莫大の利益をあげ、全町大いに富んでいた。しかるに西浦賀はこの恩恵を受けず,依然疲弊のため東西合併を願い、訴訟沙汰となりしことあり。ゆえに禁制の塩を西浦賀の扱いとして許可あれば全町潤うとして太田又四郎、白井儀兵衛、より中島三郎助へ懇請、三郎助、水戸公の知遇を受けおりしをもって、水戸公に願いで、目の下三尺の鯛を大盥(たらい)台に泳がせて、浦賀より海路芝浦に揚げ、水府館(後楽園)に献上の事ありしと。この請願、水戸公の容る所となりて、幕府の許可を受く。三郎助、白井儀兵衛を帯同、水府館に伺候す。白井より種々結構の献上ありしを公悦ばれ、時服(紋付お羽織)拝領、このお羽織月星のお替文なりしを以て、後白井は持ち船の旗印にこの月星を用ふ。これより西浦賀にて塩専売を扱う。安房、上総、伊豆、相模、鈴鹿より甲州までの塩を集散、問屋十五軒共同扱い、船に水戸御用の旗を立て積み出す。扱い高一日に二千俵なりしと。これにより西浦賀町民生色あり。利潤少なからず、資産を積む。ひとへに三郎助の恩沢として感謝厚し。明治二十四年、三郎助父子二十三回忌を期して、金品労力の寄進を惜しまず、白井儀兵衛はその持ち船にて仙台塩釜神社より碑石を運び、そのほか津々浦々の木々を集め植えたりと。

 

浦賀と水戸藩と行徳の関係

積極開国の中島三郎助と攘夷の水戸公との関係の始まり。ここに静岡県沼津市戸田が関係する。

 

コメント
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