積んでいた本を断捨離するため、今一度『大江戸を考証する 稲垣史生著』を読んでいる。この本の著者の観点から上野・浅草から始まる。もちろん徳川は江戸の町を作るのに土地の割り振りして城下町計画をしていて、武家地と寺院の割合が多い。また度重なる火災などの災害で、区画の見直しの歴史となっている。江戸の人口が100万人とすると町人の地域の人口密集度はすさまじい。
上野寛永寺の地域は初めは伊勢の藤堂家、津軽の津軽家、越後村上の堀家の下屋敷だった。二代秀忠によって寛永寺が造られると、上記の3家が移転した。今上野公園に残っている上野大仏は堀家の寄進した漆喰作りの大仏が何度も損壊し再建したものという。
寛永寺の山号は寛永の年号から採ったもので、年号は朝廷が決めることで、早くから江戸幕府は山号の勅許申請していた。やっと慶安年間に勅許があったという。さらに幕府は寛永寺を権威つけるため、三代目の御門主として、後水野尾天皇の第二皇子が一品親王輪王寺宮となった。第十五代目も公現親王、伏見宮家第九皇子、後の北白川宮能久親王となる。
ここで沢庵と家光の関係から、紫衣事件の隠されたことが幕末に現れた。寛永寺の御門主は寛永寺本坊に住んでいたが日光の輪王寺門主も兼務されていた。
上野戦争の幕府方の旗頭は輪王寺宮だった。これが漬物の福神漬に関係するとは今でも誰も知らない。