年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

上野寛永寺から 東京の漬物・沢庵と福神漬

2022年01月23日 | 福神漬
上野寛永寺将軍家の葬儀 浦井 正明著
東京都台東区中央図書館はいつも都営浅草線浅草駅で降りて、浅草寺境内などを通って、かっぱ橋料理道具街の外れの図書館へ行く。2階の郷土資料室で閲覧券を提示し、座席を確保する。ここは浅草・上野界隈の資料が揃っていて、読む本を読んだ後、書棚をいつも眺めて、ちらっと書き出しと最後を読む。1冊は2分で終わる。
浦井 正明(うらい しょうみょう、1937年 - )は、東叡山寛永寺貫主 
 この人の本は『「上野」時空遊行 歴史をひもとき、「いま」を楽しむ』 という本が台東図書館にあった記憶があるがもう内容は忘れてしまった。
 今は福神漬を調べているが幕府がまだ制度的に確立していない時期の宗教政策は寛永寺創建者天海で天海の死去後の幕府の宗教顧問のようなことを沢庵和尚が行っていた。沢庵は紫衣事件の中心人物で禅と政治の関係を節を曲げず、山形へ流された。幕府による紫衣事件の聴聞時には、上野の地で堀家・藤堂家の支援を受けていた。
 また赦免後には京都の朝廷と宗教界に節を曲げないという評判があった。紫衣事件では3人の僧侶が流罪となったが二人は事件の記憶から消されている。寛永寺の御門主の3代目は後水野天皇の第三皇子が継承し、幕末まで『一品』という他の門跡寺院にない格式を持つ山主によって継承された。つまり江戸時代の宗教界の頂点の存在であった。

 言い伝えでは天海僧正が徳川家康を七つの徳を兼ね備えた天下人と奏上した。家康は喜び狩野探幽に七福神の絵を描かせ、民間に伝わったという。正徳の頃(1711-16)谷中に七福神を祀った寺をめぐることが流行し、今も続いている。福神漬の命名にはこの七福神巡りを表向きの由来として、明治政府の言論弾圧を回避していたと思われる。
 多くの福神漬の命名時の関係者が明治26年ごろまでに死去し、今では深く調べる人はいない。しかし隠された意図は明治の事物の起源を調べ、著書にした福島県郡山市出身の石井研堂の『缶詰の始まり』に不思議な記述が出てくる。これは池之端の酒悦の漬物を缶詰に入れたことを記述している。
 上野に時空を超えた漬物の命名に隠された比喩がある気がする。

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