都営三田線神保町駅で降り、千代田区立千代田図書館で河鍋暁斎の評伝3冊を読む。一人は福神漬命名者瓜生政和(梅亭金駕)、次は飯島虚心(飯島半十郎)、そして建築家ジョサイアコンドル。
明治3年10月の上野不忍池の料亭での事件の記述の差を確認。図書館を出て東日本大震災で講堂の天井が落下し死傷者が出た九段会館が最近に再建され、お堀の桜が別角度で見ることが出来るようになった。どうやら一方通行逆行となってしまったがあまり知られていないのでぶつかることはなかった。九段下から武道館へ行く途中で桜が満開で歩道が大混雑。ちょうど武道館では法政大学が卒業式だった。はかま姿の女子学生が親と共に桜と共に記念撮影していた。
その直後にあまりの混雑で靖国神社の桜の開花標本木の訪問をあきらめ、千鳥ヶ淵の戦没者祈念施設に向かう。桜の雑踏に比べ人は少ない。そこから番町の日テレに向かう道すが昔ここにあった警視庁の科学捜査研究所を訪問した記憶がよみがえった(東京都千代田区三番町六番地・今は柏の方に移転) 。今は裁判員裁判で素人が流血した遺体写真を見ているようだが、研究所の所員の説明で初めて見た時は、肉類とかイチゴジャムは思い出して食べることが出来なかったという。ここにあった遺体写真は経年劣化しないカラ-写真で生々しかった。つまり科捜研の中に入ったことがあった。印象としてのこっているのが実験室。
大妻女子大、家政大学とか女子教育のメッカともいえる地域を地下鉄番町駅に向かう。東郷公園が整備中で、隣接する千代田区立九段中学が卒業式のようだった。そこで安政3年の番町の古地図を写真にとる。千代田区が歩道に設置した地図で今と江戸時代の比較地図だった。一番町プラザという千代田区の高齢者施設は江戸時代は旗本長井五右衛門昌純の家で子孫が長井総太郎(金升・鶯亭金升)で金升の明治の面影はここの話となる。
地図のあるところは久世三四郎の家でここで後の講談師松林伯円が育った。今の日テレ番町スタジオは江戸時代南町奉行だった筒井政憲の家であった。(出典・明治文芸と薔薇 : 話芸への通路 中込重明)
どろぼう伯円は筒井に南町奉行時代の話を講談にしたという。
夏日となって汗をかきすぎ、都営新宿線市ヶ谷駅で帰途につく。


