TVで本格的な梅雨らしい天気であるという。すでに7月に入って一度も30度を超えない。昨年は7月前に梅雨が明け、今頃猛暑となって梅干しが記録に残るくらい売れた。今年はさっぱりだろう。天日干しには不適切な雨ばかり。5月は水不足を心配していたが今はだれも気にはしない。逆に昨年以来大雨による災害が多発し、避難準備の警告が増えた。経験の長い年寄りが多く、自己判断で天気を判断している。
このままだと梅雨明けはまだまだのようだ。梅干しの売れ行きも悪そうだ。
TVで本格的な梅雨らしい天気であるという。すでに7月に入って一度も30度を超えない。昨年は7月前に梅雨が明け、今頃猛暑となって梅干しが記録に残るくらい売れた。今年はさっぱりだろう。天日干しには不適切な雨ばかり。5月は水不足を心配していたが今はだれも気にはしない。逆に昨年以来大雨による災害が多発し、避難準備の警告が増えた。経験の長い年寄りが多く、自己判断で天気を判断している。
このままだと梅雨明けはまだまだのようだ。梅干しの売れ行きも悪そうだ。
世間の風はどのように風向きが変わるのだろうか。漬物業界は10数年前の中国と韓国との寄生虫キムチ騒動で大きな影響があった。自国のキムチ至上主義の韓国の政治家と韓国マスコミが中国から韓国に入るキムチを寄生虫が入っているとクレ-ムをつけた。韓国では日本の吉野家でも生姜を提供することと同じようにキムチが無料で提供されるのが普通となっている。そのためコストを抑えるため中国からの安いキムチが急増した。中国には韓国系の人も多数おりそこそこ味も良い。従ってクレ-ムをつけるには自国のほうが衛生が良いと思い寄生虫が入っていることを強調した。この騒動が日本に報道され、日本で販売されている韓国製のキムチの販売が急速に落ちた。売り場の縮小を恐れた日本の漬物業者は韓国系の名前のキムチの名前を変え、日本国産の白菜使用を強調し、売り場を確保した。この騒動でかなりの日本の業者が倒産・廃業となった。今回の日本と韓国の関係悪化でもキムチの売れ行きは変わらないが日本の業者が韓国からの輸入はリスクがあると認識して売り場縮小し、日本の在日の人が作っているキムチに変えることもあるだろう。
政治の風が知らない間に漬物の上を吹いている。
この頃雨続きで丸森町へ行く計画が揺れている。どうしても伊具高校の前身を創立した佐藤清のことを調べたいので現地に行く計画をしていた。思わぬ豊洲延期で2年半遅れた。その分年をとった。カーナビ検索で350K程度ある。休憩入れても5時間はかかる。すると現地で何もできない。戻りも過労で事故の懸念も出た。今事故を起こすと高齢者は新聞沙汰となる。80を超えれば世間の糾弾は前歴のいかんにかかわらず追及が厳しい。特に代替交通手段のある都市住民は事故はすぐに免許返納となる。出不精からデブになりそう。
チョット工夫が必要だ。
半年前、車のバッテリ-が上がった。新車から2年半だが車のディ-ラ-はおかしいと言っていたが車が急に稼働率が下がって充電時間が減ったためだろう。駐車していても車載カメラで24H画像を撮っているので電力を消費している。さらに電動ドアのため余力も必要で劣化した電池では無理となったのだろう。
仕事を完全リタイア状態で過ごしていても食欲は普通。まだアルコ-ル漬とはならない。この頃の雨続きで出かける気がしない。歩数計でも1000以下。豊洲へ行けば2万超えていた。晴れたら行きたいところが多数ある。根気が続かない。すぐ眠くなる。
7月4日夕方、日テレの番組で台湾を訪問した台湾生まれの人たちの旅行が放映されていた。再建された紀州庵というところの集合写真がどこかで見かけたと思ったら、昭和20年5月20日に特攻した叔父の顔があった。あの写真が台湾の高級料亭での集合写真と確認できた。陸軍第204飛行隊である。ビルマのインパ―ル作戦、レイテ戦そして台湾で終戦となった。10数名が台湾から嘉手納沖へ204隊で特攻している。あの特攻隊員の集合写真は昭和20年3月から4月の間と思われる。
いま沖縄の航空自衛隊が第204飛行隊という。偶然なのだろうか。
清水の次郎長のことを調べていたら、NHK歴史への招待3 昭和55年というのが検索に出た。借り出したら(明治一代女)花井のお梅の事実を調べていた。明治に入って没落した下級士族の悲劇であるという。お梅が美貌であったので芸者となって稼ぎ、元士族の父を助けた。これが故殺人事件となった。史実と事実がこれほど異なるのも明治という時代かもしれない。お梅が芸者で稼いだ金で日本橋浜町二丁目の藤田茂吉の跡地を購入し、酔月楼という待合を経営するようになった。この経営権の問題から殺人事件となった。今の感覚からだと没落した父のための資金援助なので貞女とも見えるという。この待合の経営権を巡って父方に味方した箱屋(芸者の荷物等を扱う。今のタレントマネ-ジャ-)を殺した。
花井のお梅は元佐倉藩士の子女で同じ佐倉藩士の子であった次の5千円札の津田梅子は1歳年下であった。日本にいた時の事件で津田梅子はお梅の事件を知っていた可能性があるという。作家吉川英二の母とお梅は同じ佐倉の町内で遊んでいたという。
福神漬の歴史は士族の授産という観点から調べないといけないと最近感じている。旧来の商売に参入して昔からの商人と対抗できるはずがない。この本で秩禄処分で得た公債の金利だけで生活できないと書いてあった。明治6年に死去した長井昌言は幕府時代2000石だったので浪費しなければ金利だけで親子二人の生活ができたかもしれない。しかし下級士族は5%の金利で今の物価の直しても5から7万円しかないという。これでは生活ができない。山岡鉄舟と酒悦主人との交際も山岡の書を買うことで、士族の援助としたのだろう。次郎長も山岡の書で鉄舟寺の再建の資金の一部としたという。金銭に無頓着な山岡は商人から書で金銭を得、没落した士族を助けたと思う。山岡も酒悦が缶詰と上野ということから受け入れたと感じる。山岡鉄舟の書は大量に出回り、あまり高価な値がつかないという。桃園と書いてある山岡鉄舟の書は今でも不二聖心女子高校にあるのだろうか。
江戸時代末期は武士の交際費が多大で地位を得ることや地位を維持する交際費の必要性があった。
雨の日はたまりに溜まった漬物の資料をやっと整理して記録を見直し。どこを見直しどこを再度調べるかも始まる。15年以上築地の仕事で虫食い状態となった資料から、ようやく方向性が見えてきた。
そんな時、大日本近世史 史料 諸問屋再興調 第一巻を読んでいる。この本は天保の改革で問屋制度が破壊され再興するための過程の史料である。函館の五稜郭付近で戦闘死した千葉行徳の漬物商人がなぜ幕府出入りの商人から浦賀与力の人たちと一緒に行ったのかを調べるとき、塩問屋の再興があったとみている。塩の流通が天保の改革で乱れ、問屋再興でも浦賀の塩商人が混乱していたようだ。この件で中島三郎助が塩商人を援助したことから明治以後、三郎助の遺子の支援を浦賀の塩商人たちがした。さらに浦賀ドックの設立にも塩商人の出資があったという。この塩に関することと行徳の塩との関係が何かあったと思う。さらに関東河川舟運において水戸藩の旗は重要で中島と水戸藩の造船関係の提携で旗の使用の黙認があったと思われる。この文献がまだ見つからない。
漬物用の塩の品質は醤油や味噌の塩より厳しくない。上等の塩を適切に販売するには下等の塩の消費先を確保しなければならない。
ようやく築地豊洲が終わってホットすることもなく本格的介護の始まり。早速土曜日にデイサ-ビスから電話で呼び出された。今年一回目の入浴後の失神という。救急車で病院搬送。絶対入院が嫌いな母は2時間後退院。医師の見立てだとあと10歳若ければ手術を薦めるという。おいおい88歳でも心臓手術するというのか。来年オリンピックが終われば100歳となる。変な目標で生かすことにみんなで努力している。