横浜のスポ-ツジムで発熱して高齢者が運動したため、1400人がいま監視される状態となった。該当する人物の周囲の人たちもびっくりだろう。相互の不信感はこれで増幅される。
近所で営業しているフィットネスクラブは数か所あって毎日のようにチラシ広告が入っている。どこも盛業で足だけ外から見える。凡そ月6000円くらいだが銭湯利用で470円x20日としたらはるかに安い。最近銭湯が消えて、フィットネスが増えたのはこのような理由かもしれない。コロナでフィットネスが閉鎖となって銭湯通いが増えるかもしれない。さて大阪や横浜の感染経路の事例から、文献・記録がなくとも明らかな推測が是認される様だ。
高野長英が嘉永3年10月末に江戸市中で南町奉行配下の与力たちによって惨殺された。本来ならば生け捕りが基本だったが、当時の南町奉行は遠山景元 で高野長英が冤罪で投獄をされていることは知っていたので、小伝馬町牢獄から放火によって、開放され投獄した罪が遠山によって消える恐れがあった。与力たちにとって江戸市中で逃亡生活をしていた高野を許すことはメンツが許さないことだった。
今でも警察等からの逃亡者は微罪であっても大騒ぎする。高野が死去後逃亡生活を支援した人物の捜索があって、内田弥太郎も調べられたが処分なく解放された。
幕府上層部の思惑が漏れ、高野が惨殺され、内田が無罪となった。当時でも市中のうわさでこの処分はおかしいと思われいた。
房総での内田の算学(関流)の弟子あった花香安精の所に戸田伊豆守氏栄の庶子を養子にしたのは浦賀の人脈と火付盗賊改の職を経験している旗本長井家、筒井政憲と推測しても良いのだろうか。戸田氏栄3男が長井家に養子に入ったのは嘉永3年からペリ-来航直前の嘉永6年6月以前である。幕府の記録に長井昌言が嘉永6年3月に小普請入りと記録に出てくる。嘉永の切絵図で嘉永3年頃は長井乙三郎となっている。
つまり嘉永3年11月から12月にかけて、高野を匿った人々の捜索が行われ、内田を処分しないことで決着をつけた。文献は無い。恩義を感じた内田弥太郎は長井昌言の願いを聞き入れ、千葉万歳村の花香家に養子の斡旋をした。長井家の知行地は飯岡にもあって、知っていたと思われる。この花香家に入った養子は後の自由民権運動福島事件の被告人花香恭次郎である。
福島事件の報復を目的とした加波山事件が爆弾テロであったため、子孫は福島事件を語ることなく今日に至る。