ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

サツマイモ

2012-11-08 13:24:00 | Weblog




芋好きの私は鳴門金時を2個スーパーで買って帰った。
大きさは長さが15センチで胴回りが12センチで1個90円もした。
帰宅すると、家内が「おとうさん、何を買って来たの」と言うので鳴門金時を見せると、ちらっと私を見て、床に置いた袋をよいしょとひっくり返した。
すると巨大なサツマイモがごろんごろんと出て来た。
ビックリ仰天である。
測ってみると一番大きな芋は長さが30センチで胴回りが45センチもあった。
知人は車にキャリーに一杯積んでいて、もっと持って返って、と言われたそうだ。
早速大学芋風のものを作ってくれた。
私は自分が買って帰った芋を半分にし、電子レンジでチンして、コーヒーの友にして楽しんだ。
甘いお菓子を食べるよりはいいのかな?





釣り

2012-11-07 10:27:25 | Weblog
岸壁から500メートルのびた突堤の先端で釣りをする人



<小さな魚はリリースされずに突堤のコンクリートの上に投げ出されている。>

 暖かい晴れた休日の岸壁沿いは釣り人が一杯だ。多くの釣り人が子供の陣取りゲームのように一人で竿三本分の釣り場を確保していた。ぼくは釣り好きの父に連れられて月に一度はいい釣り場を求めて早めの時間帯に出かけた。釣りは大好きだ。しかしいつも近場の釣り場なので、たまには海峡大橋を渡って初めての釣り場へ連れて行って欲しいけれどまだ実現したためしはない。
 今日もいつもの岸壁から竿を突き出して魚が餌をつつきに来るのを静かに待っていた。すると父さんより先に僕の竿に当たりがきた。何時魚が食い付いてもいいように身構えていたが、ぐぐっと引きがくると慌てて力任せに引っ張ってしまったから魚は一目散に逃げてしまい、餌を取られた釣り針だけが光りながら上がってきた。「それ見ろ、教えたようにしろ、慌てず、ゆっくり手元へ引き寄せるようにしないと駄目だ」と少しいら立った声がした。父さんの過剰なダメだしには閉口だ。怒られても気にしない振りをしてゆっくりと餌を付け替え、沖へ投げた。すると隣で父さんが竿を起こしながらリールを勢いよく巻いた。腹を大きく膨らませたなごやふぐがかかっていた。それを見て、がっかりした、と言わんばかりに釣り針を口から外すとバケツへ入れず、いきなり突堤のコンクリートの上に放り投げた。僕は一瞬ドキッとして「お父さん海へ戻さないと死んじゃう」と思わず口走っていた。「バカなこと言うな、戻すと直ぐにまた餌に食い付くだろう」「それでは持て帰って食べようよ」と食い下がると「なごやふぐは毒があるから素人がさばいて食えない」と言われた。コンクリートの上で仰向けになって大きく腹を膨らまし、しっぽをパタパタ振っているユーモラスな魚を見ていると、可哀想になって、父さんの隙を見て、さっとシッポをつまんで少し離れた所から海へ放り投げた。ボチャと音がしてあっという間に水中へ潜って見えなくなった。急いで戻ると、「そうだな、父さんも子供の頃は同じように思ったものさ」と笑っていた。大人はいつ頃から子供時代の心を忘れてしまうのだろう。
 コンクリートの上に打ち捨てられたなごやふぐは自分が何処にいるのか全く見当がつかなかった。いくら身体を左右に振ってみても背中がざらざらした固いものの上にあるのはわかるけれど、どうする事もできない。恐ろしくて堪らないので大きく口を開け、腹を張り裂けんばかりに膨らませてみたけれど、状況は変わらず、皮から水分が蒸発して、不安がつのるばかりだった。突然しっぽをつまみ上げられて、ふわふわと浮き上がったと感じたと思ったら、ジャボット海面に落ちていた。膨れた腹を一気にしぼませて水中へ頭から潜った。大丈夫と思える深さまできて、何が起こったのかを思い返してみた。先ず食べ物が上からゆらゆらと落ちてきて、とてもうまそうなので少しずつかじっていた時急に横取りされそうになって、慌ててパックと一口に飲み込んだのがいけなかった。あれは誰かが仕掛けた罠の御馳走だったのだ。これからはよく見定めてから食べないと、今度引っかかると二度と海には戻れまい。それにしてもしっぽをつまんで運んでくれたのは一体何ものだろうか。気になったので、恐る恐る海面まであがって見上げると長い棒を海へ突き出している人が二人いた。その内の小さな人に違いなかった。
ふぐ語でお礼を言っても判らないし、声も届かないと思ったけれど「ありがとう」と口をパクパクして再び水中へ戻った。
 「お父さんあそこにいた魚が何かいったような気がした。もしかして先ほど逃がしてやったなごやふぐかもしれないね」
「何を言ってんだ、ふぐがお礼を言いにきたりするものか」と厳しい審判が下った。もっともな話だ。しかし僕にはふぐ語が聞こえたような気がした。気持ちを伝えるのは言葉だけではなく、何か通じあえる、目には見えなくても、言葉が話せてなくても、お互いのテレパシーが交信できる、魔法の携帯電話のようなものがきっとあるような気がして、ふぐが僕に「ありがとう」と言っても少しも不思議ではなかった。僕にはその言葉が聞こえたのだから。
 空を見上げると向かい風に羽を広げたカモメが前に進むでもなく、風に乗ってふわーと浮き上がったり、すーと下へ降りたりして、風と戯れていた。魚も鳥も僕たちよりずっと自由が一杯で楽しそうに見えた。ぼんやりとしていた僕に父さんが「おい、浮きが沈んでいるぞ、今度は確りと釣り上げろ」と声を掛けてくれた。我に返って竿ぐいっと握りしめて当たりを確認しながらゆっくりとリールを巻いた。海面にピシャと音をさせて大きなカワハギが上がってきた。「お父さん、見て見て、僕釣ったよ」興奮して声が上ずっていた。
お父さんの顔もほころんでいた。

森鴎外

2012-11-03 10:11:29 | Weblog


以前樋口一葉を読んでいる時に鴎外が一葉を尋ね、不在の彼女が帰って来るのを待つ姿を知って、鴎外の心の大きい温もりを感じていたが、森鴎外の息子の類が書いた”森家の人びと”を読んで、これまで漠然と描いていた鴎外のイメージが大きく変わった。
あの時代の人で、それも国の高い地位にいて、しかも名高い文筆家で、どうしてあのように優しい人でいられたのか不思議だ。
きっと私には知りようのない、生まれながらに、優しい心を持った人だったのだろう。

船もブロックにして組み立て

2012-11-02 09:56:58 | Weblog




この光景は船が座礁している様子ではありません。
おもちゃのブロックのように作られた船の分部を一カ所に運んで組み立てています。
瀬戸内海では毎日大きなビルのような鉄のかたまりを台船に乗せた小さなタッグボートが引っ張って行き来しています。
そしてブロックとブロックを溶接で合体して一つの船に作り上げています。
一寸心配になりますが昔と違って溶接技術の進歩で船体が大海原の波でポッキリと折れると言う悲劇にはならないそうです。
ブロック工法の黎明期には太平洋などで大きな三角波に乗って船体が破断したことがあったそうです。
静かな海の底知れないエネルギーは津波を始め計り知れないものがある。
それに立ち向かう造船技術や操船技術は凄い。

野菜の廃棄

2012-11-01 09:45:56 | Weblog


自宅から街へ出る自転車のコースにいつも手入れの行き届いた畑があって季節季節の野菜が植えられている。
今年も茄子の成長に合わせて風に負けないように支えの棒を立てたり紐で結んで大切に育てていた。
しかし盛りになっても茄子を収穫していることがあまりなかったように思った。
昨日通りかかると茎の根元に茄子が一杯転がっていた。
不思議でならなかった。
食べもしないものを何故育てるのだろうか。
私には全く理解出来ない。
自分が食べきれないのなら、無料で通りがかりの人にでも持ち帰ってもらえばいいと思うのだが。
自転車で田舎道を走っていると、至る所で目にする光景だ。
問えば、恐らく自分の健康の為だ、と言われるだろう。
何か割り切れない気持ちになる。