時折出かける港の公園のベンチで数人の人がよく長椅子に片膝を立ててリラックスした恰好で話しているのを見かける。いかにも人生を楽しんでいる、といった風景なのだが、果たしてそれはどうか分らない。どうも公園のトイレのところを住居にしているらしいのだ。先日も五時頃に便所に行くと通路で三人が車座になってピカピカの鍋を囲んでいた。少し離れていたので何を煮ていたのか分らなかったけれど早い夕食には驚かされた。
海に面した芝生の生えた公園で船の出入りを見ながらの生活なんてまるでキャンプだ。
トイレも洗面所も電話もあるし直ぐそばには交番もある好立地だ。
家族は?お金は?などなど、詮索しても始まらない。
みんなそれぞれの人生を生きているのだから。
海に面した芝生の生えた公園で船の出入りを見ながらの生活なんてまるでキャンプだ。
トイレも洗面所も電話もあるし直ぐそばには交番もある好立地だ。
家族は?お金は?などなど、詮索しても始まらない。
みんなそれぞれの人生を生きているのだから。
昨日は朝から島へ行って美味しい昼食をとる予定だった。
ところが朝新聞の訃報欄を見て急遽葬儀へ予定を変更した。
昼食はコンビニのおにぎり、卵焼きと奥様不在時の予備食の吸物ですました。
今日はいつものお弁当。
本日のメニューはタケノコとこんにゃくの煮物、春雨のゴマ和え、揚げ豆腐と茄子の揚げ物とサンマの煮物(旬のものを焼くのが一番かも知れませんが、それと同じぐらい美味しい)
ただ一点揚げ豆腐を少し工夫してくれるといいのだが、まあ豆腐は好きだから良しとしょう。
点数は95点だ。
今日のおかず。
トリカツ、さくらえびともやしのゴマ和え、カボチャとひじきの煮物とマカロニサラダ。
トリカツには閉口だ。
必死で一個を食べる。
ご飯は四分の一で腹一杯。
明日はしまなみ海道を行くので弁当は休み。
何か変わったものを食べよう。
ああ花が咲いた、と思っていた。
ところが今日になって花の色が一部抜けて白いままになっているのに気付いた。
専門家に聞けば理屈はいろいろあるだろうけれど自然は不思議だらけだ。
何を見ても凄いなと感心させられる。
昼過ぎまで友人と身辺のことや政治のこと歴史のことなど取り留めもないことをしゃべる。
今日もお昼は一人で弁当を食べる。
コーヒーを飲んで甘いものをちょっと食べたのでご飯はほんの少しにする。
メニューは焼き魚、大根、卵、豆、竹輪の煮物、ジャガイモサラダと麻棒豆腐。
おかずは全部平らげた。
好物はなかったけれどまずまずだった。
今日は一人で食事。
お弁当があるから家内も安心して外出ができる。
おかずは昆布と豆の煮物、ブロッコリーのサラダ、ごぼうとレバーの煮物、そしてお魚の南蛮づけ。
レバーは苦手だが目をつぶるようにして口へ入れる。
体に良いものは無理をしてでも食べましょう。
それにしても口の中に広がるレバーの感触はちょっと好きに慣れない。
朝から小雨がぱらついていた。
慣れないウインドウズのキーボードを打っていると何だか指先が冷たくなったようで気分転換に雨の中を桜の開花具合を見に行った。
蕾みはかなり膨らんで来ているけれど今日明日に開花するようには見えなかった。
それでも小雨をついてぼんぼりが吊り下げられて準備は万端整ったようだった。
きっとこの土日は人で溢れることだろう。
いつものお弁当をもってお昼ご飯を桜の下で食べる予定。
今日の弁当はとりの空揚げ、野菜のにもの、ぬたとビーフンの炒めもの。
とりは勘弁願たいけれど定番メニューの主役だ。
我慢我慢で半分食べた。
とりは奥さんの大好物だ。
どうしてとり肉が好きになれないかは自分にもよく分らない。
肉もない、卵もない、終戦直後の何もな時代に育ち、とりの肉を買いに鳥専門の肉やさんへお使いに行かされ、卵が内臓に入っていると嬉しく思ったりしたものだったのに。
それがどうして嫌いになったのだろう。
よく考えてみると、夏休みに田舎へ行くと鶏をさばい(殺し)てご馳走してくれていた。
おじさんはその作業を子供達の目の前でなんの躊躇もなくしていた。
鶏は首を刎ねられてもそのまま数歩走った。そういった様子や羽をむしられた鳥肌の姿が記憶の隅に残っているからかも知れない。
分らないように料理されたものは美味しいといって食べたりすると、時折奥さんに揶揄さされたりする。
何はともあれ頑張ってお肉も食べないとかさかさお肌の干物みたいになってしまう。
伊予守護大館氏明公の首塚が私のウォーキングコースにある。
居城のあった世田山からは十キロ近くも離れたところだ。
今は普通の民家の細い道に面した庭の一部である。
太平記には1342年10月19日に亡くなったと書かれているらしいけれど、660年余も経た2007年の現在でもお花が手向けられ大切に祀られているのは怨霊をしずめたいと願う人の思いからに違いない。
居城のあった世田山からは十キロ近くも離れたところだ。
今は普通の民家の細い道に面した庭の一部である。
太平記には1342年10月19日に亡くなったと書かれているらしいけれど、660年余も経た2007年の現在でもお花が手向けられ大切に祀られているのは怨霊をしずめたいと願う人の思いからに違いない。