ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

パイロットなしでは通過出来ない.

2006-08-30 10:24:07 | Weblog

島が殆ど隠れている。本当に大きい。対岸へ向かうフェリーで撮った写真。巨大船が向かっているのは海の難所“来島海峡”です。潮流は速く、日本三大潮流にはいっている海峡です。直ぐ上をしまなみ海道の来島海峡大橋が跨いでいる。そして海峡を見下ろす山の上では24時間航行を監視しコントロールする潮流信号所が無線や巨大な点滅信号板で安全を呼び掛けています。恐らくベテランのパイロット(水先案内人)が乗っていなかったら通り抜けるのは難しいでしょう。現地で通過の様子を見ているとヒヤヒヤします。船の両舷は島とすれすれで、上部には橋があり、海中には岩が船底を擦らんばかりに盛り上がっているはずです。以前に航路地図を見たことがあるが、細かく航行の指示が書かれていた。海峡に入ると幾度も指示に従って次々と警笛を鳴らし方向を転換しながら通過しなければならないらしい。それにしても車と違って直ぐに止まれない船を操船する技術は素晴らしい。船が停船するのに2キロも走ってしまうそうです。最新装置も大切ですが、つまるところは“人間のカン”に行き着くのではないでしょうか。

船の船籍はヨーロッパのようでした。世界は海でつながっているのを実感しました。

飲めばゴウヤのパワーわく

2006-08-29 14:31:55 | Weblog

毎日うちの奥さん、サクサクサクとゴウヤの輪切りを作っている。二尺丸の竹ざるを三つ並べて熱くて焼けそうな屋根で天日干ししてる。七日でカリカリ。

お父さんの糖を下げる、私の肥満に効く、お通じに良い・・・本当のことは分らい。
しかしあれだけ皆が身体にいいと云うのだから、きっと効くのだろう?とせっせと作って、煮出して、冷やしてゴウヤ茶にして飲んでいる。思った程苦味も無く、ちょっとした健康茶になっている。
オートメーションで作る創業うん百年の○○茶園の○○茶ではありません。
創業六十日の“我が家のゴウヤ茶”ですが、本当の手づくりで、お金では買えない本物です。感謝!感謝!(?)

それだけではない。ゴウヤの酢漬け、ゴウヤの醤油漬け、ゴウヤ入りサラダ、ゴウヤ入りカレー・・など際限が無い。

あの苦味に秘密があるのかも、と思いながら、奥さんの思いやり(?)に感謝しつつ食べている。

お遍路さんを本堂から見れば・・

2006-08-28 11:17:21 | Weblog
貴重な体験をした。家内の家の菩提寺が八十八ケ所の札所で、義母の七回忌法要をそこの本堂でした。丁度日曜日でお遍路さんがバスや自家用車で引っ切りなしに訪れて凄く賑わっていた。熱心な方はお念仏を唱え、遊び感覚の方はチョット手を合わせ小銭を投げ入れてそそくさと納経所へ向かっていた。何の御利益を求めて巡っているのだろうか。恐らくは何かの願を胸に秘めているのだろうけれど・・・・

あれお賽銭は何処にあるの?

B29爆撃機の爆音再び・・

2006-08-27 16:11:35 | Weblog
仕事を終えて一風呂浴びている時だった。突然ごーっと云う音が頭一杯に拡がって何も分らなくなった。後で聞くと身体を丸めて頭を抱えてウオーと云うばかりだったそうだ。大動脈の内部の一部が破れて破裂を起こす寸前だった。何とか死なずにすんで一年が過ぎた。
しかしそれから時折、あのゴーっと云う音が蘇って戦慄が走ることがある。何の音だろう考えているうちに思い当った。それは六十年も前の戦争のさなかに体験したB29爆撃機の爆弾投下の轟音と同じ音だったのです。何故六十年も経っ蘇ってきたのだろうか。
忘れてしまっていたけれど記憶の奥底に強く焼きつけられて密かに生き続けていたのでしょう。先日も五人掛けの椅子に腰掛けていると誰かの身体が小刻みに震えていて、その揺れが私に伝わって来た時、突然ゴーと云う轟音が突き上げて居場所を見失うような不安が広がって、思わず隣にいた妻の手を握りしめていた。ただ自分の身体が訳もなく揺れだしたと錯覚したのだった。

爆弾が炸裂する時の閃光や破裂音の激しさは脳に強く焼きつけられていて時間と共に薄れて行ったりするものでは無いのだ。
今もなお世界各地で繰り返えされている戦争の惨禍を見るにつけ、その無情さに胸が痛む。

ニュースになると人の生死も数字でしかありませんが、事件の現場には人々の実人生があって、悲嘆にくれている人々がいるのです。

聖戦など無いのです。しかしわれらこそは正義なりと主張する人々はいるのです。

しまなみ海道・鯛と恵比寿さんと海賊

2006-08-26 13:33:55 | Weblog
先日NHKの朝の番組で尾道と愛媛県今治市を結ぶ“しまなみ海道”を自転車で巡る旅の放送していた。出発は尾道から少し行ったレモンの育つ因島。そして旅の終点は花卉栽培の今治市馬島でした。島々をつなぐ橋を自転車で渡って行きます。海の涼風をかき分けるようにペダルを踏んで走ると、夏とはいっても実に爽快そうでした。日射しが大変そうでしたが、それを忘れさせる素晴らしさがあると実感を込めて話されていました。時々馬島までウォーキングをする私としては、テレビを見ながら頷いていました。橋の上は太陽を浴びながらの自転車や歩行もいいのですが、夏は夜の帷が下りてからが最高です。

写真の石の彫刻はしまなみ海道終点近くの馬島の手前の大島にある宮窪漁港にあります。鯛は大島の石彫サークルの方が地元の石で彫り、恵比寿さんは中国製だと思います。有名な大島石の業界も御多分に漏れず中国に押されっぱなしです。

それでも美味しい瀬戸内の魚介類は地元産です。そして歴史を繙くと海賊として名を馳せた村上水軍の本拠地です。直ぐ向いの能島には貴重な海上の城跡が残っており、水軍に関心のある人には見逃せない村上水軍博物館もあります。

姉が逝き、母も逝く・・

2006-08-13 23:36:06 | Weblog
人は必ず死ぬ。
しかし二ヵ月足らずの間に姉と母をおくることになるとは思いも寄らなかった。
姉は三年前に癌で、後三ヵ月と診断されながら最先端医療のお陰で三年の時間を貰った。入退院の繰り返しではあったが、亡くなる三ヵ月前ぐらいまでは普通の生活送っていた。しかし一旦悪くなると、がくんと体力が衰え、点滴と痛み止めの薬で生きていると云う状態になってしまった。それでも好きな桃のジュースを力のない呼吸の中で少しづつ吸ってくれたりした。また時折妹に“恐い”と洩らしたり、旦那が見えないと、どうしたの、と問いただしたりした。だが容赦しない癌の病魔は身体の中を殲滅し、遂には胸にまで現われて、皮膚の色を青く変えた。その壮絶さに姉婿は気も触れんばかりになった。そしてその日の午後姉は逝ってしまった。この臨終に立ち会って、神や仏は何処にいるのか、と切実に思った。しかし苦痛に苛まれたにも拘らず、顔は穏やかだったのが、せめてもの慰めだった。

ところが姉の四十九日法要をすまして、姉の家に返ると、先に返っていた義兄が血相を変えて家から裸足で飛び出して来て、“お母さんが、死んだ”と叫ぶのです。
入院はしていたけれど二時間前に会って、話をし、用を足し、ベットに自分で腰をかけるのを確認して肩に触れながら、もう一度法要に行くから、と云って分かれたばかりでした。一瞬頭がこんがらがって、何を云っているのか分りませんでした。
母が死んだ?母が死んだ?何???と皆叫ぶばかりでした。そんな馬鹿な話が?
病院に確認の電話をすると、お母さんは亡くなりました、と無機質な言葉が返って来ました。オロオロしながら車に飛び乗って、黒い服のまま病院へ急ぎました。
病院に着くと、一番先に駆けつけていた弟が上履きのまま駐車場へ走り出て来て、まだ息がある、と大きく手を振りながら叫ぶのです。叩きつけるように車のドアを閉めて、二階の病室に駆け込みました。そこでは体格のいい男性の看護士の方が胸の骨も折れんばかりに押しながら人工呼吸を施していてくれました。母に駆け寄ってそれぞれが必死で呼び掛けると微かに反応が返って来るようで、少しづつ心臓の鼓動が始まりました。酸素を全開状態にして呼吸を楽にしてくれてはいるのですが呼吸は弱く、止まってしまったように思えて、詰所へ走ろうとすると、胸が少しずつ上下を始めて再び蘇生できたと思えるのでした。しかしその状態を十時間余り繰り替えしながら、ロウソクの火が揺らめきながら消えるように、呼吸が細って、息を吸う咽の皮膚の縦のへこみが微かに見えた瞬間息が切れてしまったと悟った。悲しいといった感じよりも虚脱感が襲ってきた。母はその時九十三年の人生を振返っていたのだろうか。いや恐らく自分より四十九日先に逝った娘との再会を待望んでいたのだと思った。そうでなければ彼岸へ旅立つ娘の四十九日の納骨の時間に自分の死の時間を合わせたりはしないだろう。本当に人の思いの深さに胸がつまった。顔には悲しみを見せず、胸の奥底では悲嘆にくれていたのかと思うと涙が溢れて止まらない。しかしこれで良かったのだと自分に言い聞かせて、自分自身を慰めている。それにしても四十九日の間に二人を送るのは辛い。本当に寂しい。