ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

海の幸

2013-08-30 20:10:15 | Weblog




釣り自慢を1時間余って拝聴させられた。
自分で考えて特許を取った5本の釣り竿を支える装置を
6個並べて魚が食いつくのを待つらしい。
魚がかかるとライトの点滅とブザーが同時に作動して知らせる仕組み。
釣れた魚は老人ホームや自分のお得意さんに配るそうだ。
若芽の季節になると朝3時頃に船で出かけるそうだ。
とても真似の出来ることではない。
貰ったいきのいい太刀魚は焼いて、小イカは煮付けで食べた。
どちらも旨かった。
おじさんに感謝!
海の幸に感謝!

菜食主義ではありませんが

2013-08-26 21:53:42 | Weblog


菜食主義者ではありませんが毎食野菜を食べて食事が始まる。
タマネギ、キノコ、ピーマン、キャベツ、ニンジン。
ルクレに入れてレンジでチンしてポン酢で食べる。
野菜も結構美味しい。
24日のお昼はおかずみんな野菜なので温野菜は無しだった。

ヤルタから広島へを読む

2013-08-25 14:32:51 | Weblog


マイケル・ドブスの“ヤルタから広島へ”を読んだ。
1945年2月のヤルタでのルーズベルト、スターリン、チャーチルの3巨頭会談からルーズベルトの死によるトルーマンの登場と8月5日午前8時15分の広島へ原爆投下に至る6ヶ月間のアメリカ、ソビエト、イギリス3国による戦後処理の話し合いが臨場感たっぷりの筆致で描かれていた。
まるで現場にいるような感覚で一気に読んだ。
と言っても470ページもあるものだから年寄りには10日もかかった。
それにしても1千万も2千万人もの人が亡くなった戦争の処理の話し合いが、
詰まるところ戦勝国の利害のぶつかり合いだ。日本の北方領土の問題もスターリンの要求をルーズベルトが簡単に認めなければ現在のようなことにはなっていなかったはずだ。
原爆投下も7月に完成したばかりのものを8月に投下したのだから、
大量殺戮の実験だったのだと思う。
戦争に正義はない。

戦後の食糧難時代のうまいもの

2013-08-15 10:48:30 | Weblog
 
 戦争を知っている人が少なくなった。73才になる私などがもう最後かも知れない。
 
 私の人生は真珠湾攻撃の前年、1940年に始まった。終戦は五才でむかえた。食べ物のない辛い時代だった。父は出征し、母と姉と弟の四人の生活だった。疎開先では川土手を開墾してジャガイモを植えた。朝顔を洗う小川で見つけたうなぎが晩のおかずになった。カボチャの花で食用カエルも釣った。食べると鶏肉のような味がした。母がいない時に疎開先の叔母がご飯を食べさせてくれた。お茶碗にてんこ盛りの炊きたての白米ご飯を「いくらでもお変わりしいや」と笑顔で言ってくれた。目を丸くして、口一杯に頬張って、夢中で箸を運んだ。その情景は今もはっきりと瞼の裏にある。普段はお麦とお米の半々のご飯で、麦を、噛んだときの押し戻すような歯触りがいやだった。戦争が終わると直ぐに満州にいた父がヒゲぼうぼうで薄汚れた軍服姿で帰ってきた。しかし食料事情がよくなる訳もなかった。それでも父がいてくれるだけで心丈夫だった。父の弟が働いている会社の配給の化学肥料を持て来てくれて、開墾した畑のジャガイモにまくとお百姓さんもビックリの収穫があった。田舎に疎開していたから飢える事はなかったが、父も出征して収入のない母がどのようにやりくりしていたのか、幼い自分はわからなかった。ただ五才の子供もその苦労を肌で感じて、母の開墾の手助けを一生懸命していた。この話を家族にしても、嘘だろう、と言って全く信用してくれない。戦後の食糧難には親は本当に苦労したに違いない。栄養失調でお腹の大きく膨らんだ子供が沢山いた。自分たちはサツマイモやカボチャを毎日のように食べさされたけれど、何とか栄養失調にもならず生き延びた。  
 小学生になって田舎のおじいさんの家に行くと、今日は鶏を食べさせてやろう、と言って、飼っている鶏の首を子供の前で刎ねて捌いて料理してくれた。現在では考えられない情景だが、当時はそれが当たり前の時代で恐ろしいとも思わず、うまいうまいと食べた。其のせいかどうかわからないけれど現在鶏はあまり食べたくない。甘いものといえば、おばあさんの作る芋飴だ。今の高級菓子も到底およばない美味しさだった。そして、芋は蒸かして天日に干してかんころ芋つくって、かじったものだ。戦後の食糧難時代は何を喰っても、口に入るものは全て美味しかった、と言うよりは、食べるものがあるだけで嬉しかった。母に言われて鶏肉を買いに行って、モツの中に黄身を見つけると笑顔になった。戦後も十年経った頃、海軍で司厨員をしていた叔父が〝焼き飯〟を作ってくれた事があった。それを食べた時、え、これは何と言うものだろう、こんな美味しいものがあったの、と絶句した。具材はよく覚えていないが、卵とご飯と醤油とネギを炒めたものだったように思う。肉は恐らく入ってなかったに違いない。私はそれを真似て一ヶ月ぐらい毎日自分で焼き飯を作って食べた。それほどあの時の焼き飯は私の味覚に強烈だった。


ベル研究所の興亡を読む

2013-08-04 16:42:58 | Weblog


ベル研究所の書名のキャッチコピーに
”世界の技術を支配する”と書かれていた。
まさにその通りの研究所だった。
400ページ余りを一気に読んだ。
と言っても70才超えの身には中々読み進めないのだが
それでも本当に一気に読んだ。
コンピュータも携帯電話も現在の技術の種が全て
ベル研究所でまかれ、そして育まれていた。
感動の読み物だった。
全て電話を進化普及させていくことが出発点だった。
AT&Tと言う会社名は知っていたが
この本を読んでその凄さに唯々驚いている。
アップルもグーグルもマイクロソフトも
ベル研究所の長い研究の成果の上で
偶々花を咲かせた企業だと思った。