ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

母の思い出

2007-08-27 17:05:04 | Weblog
従姉妹が母の仏前に参ってくれた。
母の新盆に合せて来てくれたのだ。
県外に住んでいるので長い間会ったことがなかった。

五十四才になる彼女の名付け親は私の父だった。
伯母さんには本当にお世話になったの、といっていた。
私はよく知らないけれど早くに母親を亡くした従姉妹にとって
私の母は親代わりになって面倒をみてやっていたのだろう。
私の知らない話がいろいろ出て来た。

話しが伯母の入院の話になった時座敷きの壁に掛かった家内の
紫陽花の絵に気付いて、
「お母さん 好きな紫陽花が咲いている頃に入院して...」
と口籠ったのが心に残った。

それにしてもわざわざ出向いてくれて本当に嬉しかった。

夏の大敵の蚊を一発ピシャリ

2007-08-24 09:42:59 | Weblog
ガンガンクーラーかけた部屋で夕食にビールを飲んで、卓袱台の傍らに長くなって爆睡中の肉付きのいい二の腕に大きな蚊が着肉??した。
おっ!すげえ!と思った瞬間手がでていた。
何時も蚊は目にも止まらぬ敏捷さで手をすり抜けて姿をくらましていたのに、手のひらを返すと圧死していた。
正に佐々木小次郎のツバメ返しの早業だった。
まだまだ“任天堂の目力のソフト”に頼らなくてもいい、と独り合点している。

一杯の空

2007-08-23 18:07:47 | Weblog
砂浜で大の字に寝そべって、空を仰ぐと空の青と雲と照りつける太陽が見えるだけだった。
すると一瞬周りが消え去って自分が大空に浮いているような錯覚を覚えた。
頭が空っぽになって、身体全体が弛緩して指先から嫌なものが放出されて、軽くなった身体が空の雲の上でふわっと揺らいでいるような気分だ。
本当に不思議な感覚だが言葉で表現するのは難しい。

今は暑い盛りの夏だけれど、秋や冬の海辺に寝そべって空を見上げると夏には味わえない寂寥感があっていいものだ。

遠い四十年も昔の情景を思い出した。

これは何でしょうか

2007-08-21 16:40:17 | Weblog
この写真はしまなみ海道(尾道と四国今治を大橋で結んだ道)の一番今治よりの来島第2大橋を吊り下げているワイヤーの中心部です。
安全を計算し尽くしたものだと思うのだけれど歩いて傍を通る度にこれで大丈夫なの、と心の中で呟いてしまう。
メインワイヤは直径が80センチぐらいあるからそれなりに丈夫そうなのだが吊り下げているワイヤは直径が10センチ位で見るからに細い感じがする。
1500メートルのスパンを200本位で吊り下げているのだから1本に掛かる加重なんて知れたものだと専門家は答えるだろうけれど、歩いていると、車が通ると自分の足の下が揺れるように感じることがある。
いや実際に動いている。

それにしても歩く度に、この橋は凄い技術の塊だと感心させられる。

錦江湾横断遠泳

2007-08-18 18:50:25 | Weblog
NHKで鹿児島の小学校の遠泳同好会の小学生が錦江湾を泳いで渡るまでの三ヵ月の記録番組をみた。
四年生の泳げない男の子二人にスポットを当てたものだった。
一人は水に馴染めず泣き続けていた、そしてもう一人は手と足が上手く合わず泳げなかった。
二人ともお母さんの励ましと、六年生の兄さん姉さんの叱咤激励。
そして先生方の熱心な指導で最終の関門であるプール40周を泳ぎ切った。
今時ここまでやる先生がいるの、と驚かされた。
恐らく伝統と土地柄に大いに関係があるのかも知れないけれど素晴らしい。

水深200メートルの錦江湾の4.2キロのコースを安全に泳いで渡ることはプールとは違って大変な難事業だ。
200メートルにも伸びた子供達の列を事故の無いように、励ましながら泳いでいく。
何が先生達に遠泳の指導をさせるのだろうか。

きっと子供達が頑張って向こう岸へ泳ぎ付いた時の笑顔が輝いているからだろう。

「これが僕の一生の思い出になります。」の一言に全てが凝縮されていた。



餃子180個完食

2007-08-16 17:05:02 | Weblog
お盆に孫が勢揃い。
幼稚園2名、小学生2名、高校生2名、大人4名。
総勢10名の夕食だ。
おばあちゃん悩みます。
子供も食べる。
大人も食べる。
ビールも旨い。

そうだ!餃子を作ろう。

材料仕入にスーパーへ。
挽肉、ニラ、白菜、餃子の皮。

作ったり、180個。
炊きたてご飯に、ばあちゃん特製スープ付き。
タレもばちゃん特製。
一度に60個焼き上がる。
油断をすると食べれない。

180個は無理だろう、と思っていたが
あっという間に完食。

おお恐い。



終戦記念日

2007-08-15 23:18:32 | Weblog
終戦の日の映像を見ると、玉音放送を聞いたように思うのだが果たして本当に聞いたかどうかは判然としない。
しかしその日はとても暑い日で、箪笥の上に置かれた両肩が丸くなった角型のラジオから流れる出る言葉に母が聞き入っていた情景を思い出すのだが、その話をすると決まって、それは後から話を聞いて自分の体験のように錯覚しているのだ、と揶揄される。
だがその日の疎開先の田舎の風景を鮮明に思い出すのだから、自分の体験は本当だったと確信している。

三十三才の父は召集を受け満州へ出征していた。
それでも父は運良く終戦時には高知へ帰還していて終戦間もなく疎開先へ帰ってきた。
その日も大変暑く小川で遊んでいると、軍服を着た不精ひげ面の大きなリュックを背負った人が自分の方へ歩いて来た。
声を聞く前に父だと分かった。

私の周りには戦死した人はいなかったけれど、叔父はビルマ戦線を生き抜いた数少ない帰還兵だった。
食べる物もなく累々たる死体の中での行軍は思考を麻痺させ、死ぬ事は恐怖ではなく天の助けのように思えた、と話していた。

父のいない家で母と姉弟の四人で時限爆弾の爆発に怯えて、頭から布団を被って震えていた。
夜爆発音を聞くと本当に怖かった。
耐えきれなくなって田舎の母の叔父の家へ疎開した。
母は三人の子供を抱えて大変だったに違いない。

終戦の十日前の八月五日に私の街はB29の焼夷弾爆撃を受けて灰燼に帰した。
疎開先の畑の中に隠れていても上空に飛来するB29が頭上に焼夷弾を投下するのでは、と恐怖にかられてじっと身を屈めていた。
街は真っ赤に燃え上って顔が火照るような凄まじさだった。
私の叔父が命からがら顔をすすだらけにして目をぎらぎらさせながら避難してきた。

バラックの街の家に帰った時周りは一面焼け野原で汽車も船も一望できた。

終戦時4才だった私も今年六十六才になった。
父も母ももういない。
あの悲惨な時代の思いを風化させてはいけない。



広島・長崎の被爆体験

2007-08-09 17:20:48 | Weblog
広島に続いて長崎も被爆から62年目の熱い夏を迎えた。
アメリカは広島と長崎の2発の原子爆弾が日本の戦争終結への決断を促し、降伏が早まって日米合わせて何百万の人が死なずにすんだ、と結論付けている。
原爆投下が無くても日本の降伏は時間の問題だった。
アメリカの主張は原爆投下で起きた被害の大きさをカモフラージュする為の方便だ。
物凄い資金と頭脳と労力をかけて死にものぐるいで完成させた原子爆弾を戦場で実際に使用してその威力を実証する必要があった。更に戦後に向けてソビエトを牽制する必要もあったのでは無いだろうか。

原爆の開発は、アインシュタイン博士などのナチスから逃避して来た学者達がドイツが原子爆弾の開発をしている、といった情報をもとに、ドイツより先に原子爆弾を作らなければ大変なことになる、とアメリカ政府に働きかけてマンハッタン計画が動きだした。
ドイツと対抗する目的で始まったものをドイツ降伏後に日本で実験したのだ。
ドイツには物理の天才がいてアメリカよりも先に原子爆弾を開発してしまう、とアメリカに亡命した学者達は考えていたけれど、当のドイツの学者はそういったことはしていなかった、と読んだことがある。
ナチへの恐怖は、原子爆弾を製造し、ナチのガス室以上の非情な原子爆弾投下を正義の名のもとに行なった。
長崎では一瞬にして7万人余の人が焼き殺され、そして被爆による後遺症などで亡くなった人の数は62年経った現在143,000人にも達している。
本当に恐ろしいことだ。
戦争だから仕方が無いではすまされない。
小学生が自分達の学校の先輩や先生1300人余名がたった一つの”ひらめき”で跡形もなくなってしまった悲惨さと無念さを歌っていた。
これは戦争ではなく虐殺だと思った。

間もなく9.11の季節が巡って来る。
あの時のアメリカのショックを見て、これが原爆だったら、一体アメリカはどのような行動をとるのだろう、と思ったことがある。
恐らく直ぐに報復措置の原爆投下を実行するだろう。

力が正義なのは非常に恐い。

原爆の引き起こす悲惨さを世界中に知らしめる義務が日本政府にはある。
世界中で原爆展を開催し、実際に顔を背けずにいられないような悲惨な写真などを展示して実情を訴えるべきだ。
それが原子爆弾の被爆体験国の勤めだ。

花火と浴衣

2007-08-07 11:43:03 | Weblog
日曜日の夜は恒例の”おんまく夢花火大会”だった。
港の200メートル程の突堤に仕掛けられた花火が大音響と共に炸裂して夜空に乱舞し光の滝となって頭上に降って来る。
発射地点の突堤は、船の往来の少なかった子供の頃、泳ぎに自信のあるものは岸から突堤まで泳いで渡っていた100メート前後の距離で、私は岸壁から更に100m程離れた植込みの中で見ていた。
離れたところから見るのと違って、首を曲げて見上げながら見るのは迫力というか臨場感が全く違う。
昨年は高台にある家の前の道に腰かけを出して見た。
花火の全体は綺麗に見えるのだが、音が何秒か遅れて届くのでしっくりしなかった。

花火の観客の多さに驚いた。
街中の人が全部出て来ているのでは、と思う程だった。
そして、私が一番奇異に感じたのは若者の浴衣姿の多さだった。
半数の人が浴衣を着ているような気がした。
幼い子供を連れた若夫婦も沢山いた。
洋服を着るように一つのファッションととらえているのかも知れないけれど、とにかく夏の浴衣姿はいい。

男も女もズボンスタイルになってしまったのは残念でたまらない。

ゆとりのある生活を取り戻したいものだ。

62回目の広島原爆忌

2007-08-06 16:05:11 | Weblog
広島に原爆が投下されて六十二年が経った。
半世紀以上経た昨年も五千名余りの人の名前が原爆死没者名簿に書き加えられた。
何と云う凄惨な現実だろう。
にも拘らず原爆症認定基準をめぐって裁判が行なわれているとは信じ難い。
どうして国は頑張るのだろう。
もう少しすれば被爆者がいなくなるから時間稼ぎをしているのだろうか。
早く解決をして残り少ない人生を有意義に過ごしてもらいたい。
確かに法律は全ての国民に対して同じ基準で扱われるものだから、沖縄戦や各地の無差別爆撃で負傷したり、死亡した人々を勘案すれば、問題は色々あるかも知れないけれど、六十年以上の間苦しみを背負って来た人々に、国が手を差し伸べることに誰が反対をしようか。
1日も早く解決をして欲しい。

アメリカが核の脅威を取り除く為に北朝鮮やイランを非難し圧力をかけ続けているけれど、反対の立場の人はアメリカの核の脅威を防ぐ為だ、と主張している。
当然のことだと思う。
ソビエトとアメリカが互いに核を持ち合って、二極で対立していた冷戦時代は確かに抑止力として核が働いていた、と思えるけれど、現在のようにアメリカ一国が強力な武力を持つ時代になっては、抑止の掛からない脅威になってしまった。
アメリカの作戦計画には”核の先制攻撃”があって、あのキッシンジャー氏も懸念を持っていた。
それは核の先制攻撃には対抗措置として核の先制攻撃がありうるからだ。

NHKの番組で広大の先生達が広島型の原爆が地上で爆発した場合のシュミレーションを、原爆投下時の残骸から放射線量を割出し計算していた。
一瞬にして24万人の人が亡くなり、爆心地から3キロ以内では致死量の何十倍も何百倍もの残留放射線があって、半年余りは立入ることも出来ない、といっていた。

結論は「いかなる防御策も原爆の威力には無力で、核を放棄する以外に原爆から助かる術はない」ということだった。

非核三原則を堅持していくのであれば日本も思い切って、アメリカの核の傘から外へ出てみるのもいいかも知れない。