ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

海辺の巻き寿司ランチ

2013-12-14 11:51:54 | Weblog


12日はお日さんが顔を出していて、少し北風が少し吹いていた。
この海岸は風を遮る松林があるから冷たい北風もあまり届かなかった。
自転車を止めて、捨て石に降りると風も止まったように思った。
太陽光が体を優しく包み込んで冬が何処かへ隠れてしまったような錯覚を覚えた。
高めの平たい石をテーブルにして、太巻き寿司を出した。
巻き寿司はお母さんの持ち寄りパーティーのおこぼれだ。
最後に巻いた具沢山の本当の太巻きだった。
残すまいと無理矢理食べた。
好きな海辺で、大好きな巻き寿司を頬張っているとき
人生の幸せって、
きっとこのように一見なんでもないようなことに潜んでいて、
時折顔を見せてくれるのだろうと思った。

ふぐ忘年会

2013-12-13 12:05:37 | Weblog


毎年12月の月一の友人との飲み会はふぐに決まっている。
去年までは会に貯まったお金があって12月分の会費は自己負担なしだった。
だが今年はそのお金も底をつき、遂に半額負担になった。
それでも、普段は10000円も出して誰も食べに行かないものだから
この日ばかりは全員集合になる。
魚好きだが、ふぐ料理を珍品だとは思えない。
高いお金を払うから、これは旨いと、思うのだろう。
よくお魚屋さんが持ってくるなごやふぐの方が汁に入れても揚げても美味しいような気がする。
貧乏人のひがみか、味音痴、と言われるのかも知れないけれど、
自分の口にあったものが一番美味しい。
ふぐ料理を日本の食文化と考えれば、
一年に一度ぐらいは食べてみるのもいいかもしれない。

世界を変えた 標準革命

2013-12-06 23:07:55 | Weblog


この本は「ものづくり」の科学史、という題名が付いているが
副題に「世界を変えた標準革命」と添えられている通り、
標準化こそが現代の科学技術の隆盛をもたらした、と書かれている。
戦争の主役だった銃の大量生産をどのようにするか。
そして故障した銃の故障箇所の互換性の為の標準化。
フォードの車の大量生産など。
ここ150年ほどの間に起こった
「ものづくりの標準革命」で生活環境は驚きの変化を遂げた。

鵜の話 年寄の書いた童話(3)

2013-12-03 20:55:59 | Weblog

冬の海辺のヤシの防風林、緩(ゆる)い波が打ち返す砂浜、それに続く防波堤、さらに長くのびた突堤も人影はまばらだった。苦しくなって海面に顔を出した。護岸の大きな捨て石の水際に黒いかたまりがポカッと現れて消えた。一瞬仲間の鵜(う)が帰って来た、と思って羽がぶるつっと震えたが、自分の何倍もある鵜(う)などいない。淋(さび)しさが波紋のように広がって、小さなハートがギシギシとうずいた。お母さんはどこへ行ってしまったの。みんなはどうしているの。もう十分大きくなっているから潜(もぐ)って魚を追い掛けて、生きていけるけれど、多くの仲間や家族と一緒に暮らしたい。群れ飛ぶカモメを見ていると羨ましくてたまらない。気がめいいって翼(つばさ)を縮(ちじ)めてくちばしを垂れていると、又大きな黒いものがポカッと頭を出して空を仰いだか、と思うと水中にかくれた。一体何ものなのだ。勇気をふるって水中をぐいぐいと泳いで近づくと黒いウエットスーツのシュノーケルを着けた人間が岩のすき間に手を入れて魚や貝を探り出そうとしていた。鵜(う)には水の冷たさは気にならないけれど人間はどうなのだろう。寒風の海辺は人影もまばらで防寒着に身を包んだ釣り人やウォーキングの人が少しいるだけの真冬日なのに。私はここで餌をとらないと生きていけない。人間はこの冷たい海で魚をとらなくても死んだりはしないはずだ。それでも潜っている。どうしてだろう。私にはわからない。鵜(う)は人間に成れないし、人間も鵜(う)に成れない。鵜(う)は鵜(う)で人は人であるべきだ。自然にそった生き方がいい。するとどこかから、「そうだ、そうだ」と言う声が聞こえてきたような気がした。空耳ではなかった。岩影にじっと潜んでいた魚が人間の手が急に顔前をよぎったので飛び出し、逃げながら発した言葉だった。動転していたのか、そばにいる私にも気付かず一目散に泳ぎ抜けて去った。目の前を通り過ぎるご馳走を呆気にとられて取り逃がした。自分も魚と同じに、人間がこの寒い海中でしていることを間近に見て、説明の付かない大きな不安が心をよぎり、自慢の瞬発力も沈黙して動けなかった。思わず水から飛び出し、数十メートル水面をかすめるように滑空して、着水した。見上げると寒空(さむぞら)の中親子で釣り糸を垂れていた。「お父さん、あの鳥は」「あれは海鵜(う)だ」「鵜(う)って、鵜(う)飼で鵜(う)匠が魚をとらしている鵜(う)と同じなの」「よくは知らないけれど、同じだろう」「それよりあの鵜(う)は、きっと来島海峡大橋の向こうの鵜(う)島から来たのではないかな、来島海峡に村上水軍の本拠地があったのを知っているだろう、歴史で習う金閣寺で有名な室町幕府第三代将軍足利義満が村上水軍の頭領(とうりょう)につがいの鵜(う)を与えて、それが繁殖(はんしょく)した、といわれている」「へえそうなの、でもどうして一羽なのかな」「鵜(う)にも色々なのがいるだろう、とんまも、のろまも、いやしんぼうも、恐らく親にはぐれて帰る所がわからないのさ」「そうなのかも知れないね」そこで親子の話は途切れた。何か凄く馬鹿にされたように思ったが、よく考えてみると、うなずくことばかりだった。やっと親に付いて飛べるようになってここまで来て、慣れない下手な潜(もぐ)りで魚を追い掛けている内にみんなが次の餌場へ行ってしまったのも気付かなかった。なんとか餌にありついて波に身を揺られながら辺りを見回すと、自分一人がぽつんと漂っていた。間抜けだった。今の会話に「鵜(う)島から来た鵜(う)」と言う言葉があったぞ、まだ成鳥になっていないから長い距離を飛べない、きっと近くの島からここへ来たに違いない、と気付くと、とっさに足をばたつかせて方向も定めず飛び立っていた。空へ舞い上がって少し落着くと、先ず始めに大きな橋の架かった、一番近い島を目指すことにした。出来る限り高く舞い上がって、一気に島へ向かって高度を下げて島全体を隈無く見渡してみたけれど鵜(う)はどこにも見当たらなかった。鳶(とび)がゆったりと風に身を任せ、渚近くでカモメが忙しく飛び交っているばかりだった。仕方なく再び翼(つばさ)に力を入れて橋の上空を超えて大きな島へ出た。海岸に沿って岩場や岸辺をよく見ながら低空で飛んだ。日本三大潮流の来島海峡の流れは速く、ところどころで大きな渦を巻き、潜(もぐ)りの名手の鵜(う)でも餌は獲れそうもなかった。それでもあきらめずに島を半周すると二つ島が現れた。もしかして、と思い、翼(つばさ)を大きい島へ向けて茂みや草原、そして渚周りを入念に探したけれど鵜(う)はいなかった。だんだんと気が滅入って来たが、思い直して大きく深呼吸をして肺を膨らませ、足を蹴り上げ、翼(つばさ)を一杯に広げて風をつかんだ。体はあっという間に空に舞って次の島の木立が見えた。目を凝(こら)らすと枝の葉影に二十羽ほどの鵜(う)が身を寄せ合っていた。鵜(う)島だ。羽をすぼめてつるを離れた矢の勢いで降りた。お母さんもお父さんも仲間もみんなそこにいた。もう一人ではなかった。離ればなれの淋しさを知って、以前にも増して家族の温もりを覚えた。

健康見張り番 年寄の書いた童話(2)

2013-12-02 15:07:29 | Weblog
昨日に続いて、もう一編飽きもせずに書きました。

 僕は何時も洗面カウンター横のお風呂の脱衣場の隅で門番のようにじっとしている。
この家はもうとっくに三人の子供達も独立し、別棟の両親も亡くなって、老夫婦の二人住まいである。僕の耳には何時も空き部屋ばかりで掃除が大変だ、大変だ、と言う声が聞こえてくる。そう言いながらも毎日取り立ててする事も無いから、必ず週に一、二度は掃除機の音を響かせ、私をポンと足で蹴って、定位置を少しずらして、居場所をきれいにしてくれる。僕の体型は胴回り一辺三十センチの四角形で、身長はわずか七センチだ。しかし、小さくても力持ちで百キロぐらいのものが乗っても平気である。ところで僕は何ものか、わかりますか。僕は頼まれた訳ではないが二人の健康を見守っている体重計です。毎日自分の設定番号を間違える事も無く、おじいさんは一を、おばあさんは二を足の親指で蹴り込んで、左足をおもむろに、私の上に乗せ、次に体を少し左に傾けるようにして右足を乗せる。体が左右に振れるので数秒待ってふらつきがおさままると、目方を瞬時にはじき出して、デジタル数字を表示する。毎日殆ど変動なし。おじいさんは六十二キロ、おばあさんも同じぐらいで、六十◯◯キロです。年はとっても、女性の目方は発表がはばかられます。おじいさんも正確な数字は知らないようです。僕の居場所からはガラス戸越しにダイニングが手に取るように見える。二人の日常生活の大半を過ごす場所だ。朝になると、おじいさんが七時半に二階の寝室から降りてきて、先ずお湯を沸かし、冷蔵庫から取り出した野菜をルクレに入れて電子レンジで温め、沸かしたお湯を、ペパーフィルターに盛った粗挽きコーヒーにゆっくりと注ぎ、香を漂わせる。次にパンをトースターに入れ、キッカリ三分焼くと朝食の準備完了だ。血糖値を上げないように最初に温野菜を食べる事が決まりになっている。金属とプラスチック生まれの僕は食事を全く気にしなくていい。だが四年ぐらい経つといくら足で蹴られても反応できなくなってくる。顔もノッペラボウになって人事不省に陥って、二人の健康管理の見張り番が出来なくなる。その時は僕の食料である電池を新しく取替えて貰うと、再びエネルギーがみなぎってくる。活力が戻ると又何年も働き続けられる。毎日三回も食事をしなければ生きていけない人間とは大違いだ。ただ、僕は動けないから決められた場所にじっとしていなければならないのが苦痛だ。たまにおばあさんが花柄のスリッパを私の直ぐそばに脱ぐと、大急ぎでスリッパに話しかけて、家の中の様子を聞き出す。部屋数は十部屋ほどで二階もあるらしい。部屋の大きさは普通の八畳とか六畳なのだが、スリッパの目線から見ると天井はまるで雲の上にあるように高く見えるらしい。その気持ちはよくわかった。自分も動かされる時に同じような経験をしたことがあった。二人とも身長が無いから高さの感覚が全くわからない。それでもスリッパさんはおばあさんと一緒に家中を動き回って色々面白いに違いない。それにひきかえ動けない自分はつまらない、と心の中でぐちると、必ず「何を考えているのだ、お前の役目は何だ」と大きな声が響いて来る。しかしそれはおじいさんが掃除機でコツンと僕を押し動かして下にあるゴミを吸い取る時の音だ。いつも僕はじっと目をつぶって、身動き一つせずにじっと出番を待っている。二人だけの静かな家だから、話し声や生活の音はお昼も、静かな夜は、一層ハッキリと耳に届く。朝の苦手なおばあさんは夜になると俄然元気づいて、インターネットをしているかと思うと、外国のミステリーを観ているらしくて全くチンプンカンプンの会話が夜中過ぎまで延々と続く。遅いときは朝の三時を回っていることもある。七十過ぎのおばあさんには不健康すぎる、と思うのだが、健康の見張り番も、思いを伝えるすべが無い。ただひたすら、お風呂上がりに突き出たお腹の前に顔を出して数字を覗き込んで、ため息をついている。力になりたいと思うが、どうすればいいのかわからない。喜ばすにはデータの数字を変えれば手っ取り早いが、それはまずい。本当に体にいい助言でなければ健康管理の見張り番とは言えない。数字はともかく、僕がおばあさんに元気が出る声かけが出来れば、きっと一番いいのだが、僕の声が理解できるのだろうか。なによりも人間の言葉を何時も聞いているけれど、どのようにすれば、音が出るのかも知らない。そうだ、夜おそく、発声練習をしてみよう。「お~お~、ば~ば~、あ~あ~、さ~さ~、んん」不思議だった。僕の思っている事が言葉になって、自分の耳に聞こえた。ようし、朝、おばあさんが僕の上に乗ったら「お早うございます、目方は気にせず、今日も元気に過ごしましょう」と大きな声で話しかけよう。なによりも健康には、体重よりも歌の文句ではないけれど、「心も軽く」が一番だから。

しあわせ草(そう)年寄の書いた童話

2013-12-01 21:24:28 | Weblog
年寄が童話を書いてみた。これが童話と言えるかどうかわからないけれど、書くことは一寸面白かった。感想が聞けたら良いのだが。

学校の帰り道で田圃の畦に咲く小さな花が僕をじっと見つめているような気がした。手にすると甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐって、幼い日の母さんの温もりを思いだした。花をたくさん摘んで、家中に飾った。何時もけんかの絶えなかった家族なのに、どうしたことかみんな笑顔になって、にぎやかな食後の団らんになった。何かが変わっていた。一つ思い当たることは花の香りが溢れていることだった。そうだ、きっとあの花が人を幸せにする酸素を出しているに違いない。その夜ベッドに入って電気を消すと、小さな胞子状の光がたくさん飛び交い、コメットのようになってヒューと尾を引いて私の耳元にやって来て、「この花を世界中に咲かせてよ」と口を揃えてささやくのです。あなたは誰なのと尋ねると、『私は〝しあわせ草(そう)〟です、空気があればどこでも水を作り出せる〝アクアマン〟と幸せの空気を作り出す〝サンソマン〟に守られた花の妖精です。世界中の人々に幸せを届けたいのです、お願いします』というと、その後はもう何も聞こえず、真っ暗のままだった。耳を引っ張り、目をさすってみた。夢ではなかった。僕にどうせよ、と言うのだろう。花は育てられるとしても、世界中に花を一杯咲かせて、と言われても、どのようにすればいいのか、いろいろ考えている内に眠り込んでいた。見渡す限りの野原に花が咲き乱れ、蝶が舞い、小鳥がさえずっている。銃を構えて砂煙を上げて走る車がみえる。寒さに震えるこどもが泣いている。水を求め、食べ物を必死に探す人がいる。もっと薬を、と助けを叫ぶが人いる。そこに戸惑って立ち尽くしている僕がいる。突然、ああ底の無い穴に落ちていく・・と頭が真っ白になって、もう駄目だとあきらめかけて、目が覚めた。背中に汗がにじんでいた。ぞっとする夢だった。いくら眠ろうとしても益々目が冴えてくる。すると暗闇に小さな光が一つ二つ三つと現れて耳と目に触れると、つぶやくように眠りなさい、瞼を閉じなさい、と声がして静かな眠りが訪れた。朝は差し込む太陽の光で目が覚めた。昨夜の恐ろしい夢も目覚めるとぼやけていた。しかし妖精が耳元でささやいた「この花を世界中に咲かせてよ」と言った言葉は石に刻まれたように確りと心の底に焼き付いていた。気掛りなので起きて直ぐに花のところへ行ってみると、驚くことに、一夜で畦道に花が咲きそろい、あの花はグーンと大きくなっていて、ほほ笑みかけてきた。けげんそうな僕に「私を手にしてごらん」と言いました。言われるままに花を手にとると、昨日にも増して馥郁とした香りが立ちこめた。そして「私をお陽さんにかざして、世界中にやさしさを届けるぞ、と呼びかけて」と言いました。胸一杯に朝の空気を吸い込んで「世界中に優しさをとどけるぞ」と空に向かって大声で叫びました。花は世界へ響けよ、と透き通った声で「鳥達よ、ここへおいで」と歌いだしました。すると鳥達がどこからともなく歌声に吸い寄せられて周りに満ち溢れました。再び「しあわせ草(そう)を世界中に運んでよ、水は無くても、砂漠でも、空気があれば大丈夫、アクアマンが水づくり、種が落ちれば花は咲く、摘めば微笑みこぼれ出す、僕も、あなたも、敵も、味方もみんなにハッピー届けます」 歌声が消えると鳥達は一斉に花をくわえて飛び立ちました。夢か、と周りを見渡すと朝露光るいつもの風景でした。「どうして、何もかも思うままにできる〝しあわせ草(そう)〟は僕にささやきかけたのだろう」と不思議な気がしました。すると、まるで僕の心を見すかしたように「人の力を借りないと私は何も出来ません、幸せはみんなで作り出すものです」と、優しい声が響きました。呆然と立ち尽くしている僕のズボンの裾を愛犬のスロッピーがひっぱりました。学校に遅れると思って呼びにきてくれたのだ。帰ると母が食事を準備して待っていた。さっとすませて、鞄と弁当を持つと駆け出した。始業ぎりぎりで間に合った。ラッキー。仲間のいる学校は楽しい。あの花のことなどすっかり頭から消えていた。父さんの観ているニュースには世界の悲惨な戦争や、飢餓や病気に苦しむ人々の生々しい様子が映し出されていた。それを見ていて、不思議な体験を話し出すと、「お前、気は確かなのか」と言って全く取り合ってくれませんでした。よく考えてみると、魔法をかけられていたのかもしれない、と思った。友達との遊びに忙しく、不思議な出来事はすっかり忘れてしまっていた。ところが三ヶ月程経って、世界中で奇妙なことが起こり始めていた。砂漠に花が咲き、戦場の兵士は戦いをやめ、飢えに苦しむ人々の荒れ野にも花が芽吹き、飢えていた子供に笑顔が出始めたなどの嬉しい出来事が連日ニュースになっていた。本当に「やさしさを世界に届ける」と言う〝しあわせ草(そう)〟の願いが育ち始めていたのだ、と思った。
 世界中が〝しあわせ草(そう)〟で満ちあふれ、地球がハッピー星になればいい。