ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

バッタが来た

2007-07-27 11:57:31 | Weblog
今朝バッタが来た。
玄関の壁面にとまっていた。
白壁をバックにしているものだから身体の色が濃く見えて、何か異変があったのかと一寸驚いた。
少しして植込みの中で発見すると何も変わらず普通の色合いだった。

異常気象だなどとよくいわれるものだから少しオーバーに反応してしまうらしい。

カマキリもよく見かけたけれど、今年はまだ見ない。
年に一度はお目にかかる蛇にもお目にかかっていない。
(これは出ててこない方がいい)



原発の安全対策

2007-07-27 10:30:12 | Weblog
今度の中越沖地震で明らかになった柏崎刈羽原子力発電所の安全性への不安。
原発本体の耐震性は何とかクリヤー出来たように思うけれど、原発とは原子炉本体だけで動いているのではないのだ、という設計思想が最初から欠落していたように思う。
原発の施設全体に同じレベルの耐震対策が施されていなければ重大な事故が起こる可能性は計り知れない。

更に電力会社や国の原子力保安院は原発の安全性を本当に重大に考えていたのだろうか、という疑問がある。

あの変圧器の油漏れによる火災を見て唖然とした。
原発の規模からすればあのような火災は本来ならば瞬時に消火出来る対策か採られていて当然だ。
もし原子炉本体に異常が起きた場合はどうするのだろう。
ただじっと眺めているのだろうか。
それとも一番に避難するのだろうか。
対応や対策や行動はどうするのだろうか。

技術的なことはお金と時間をかければ解決するかも知れないけれど、今度の地震で明らかになった、一番の問題点は”原発”の恐ろしさを国や電力会社の当事者が本当に真剣に考えていなかった、ということだ。

7基もの原発がある発電所で自衛消防隊もなく地元の消防署に電話する、といったことは茶番劇みたいなものだ。(電話は必要だろうけれど)
地元の消防は住民の命を守るのが一番の仕事だ。
素人考えからしても50人体制ぐらいで最新の装備をした自衛消防隊があって、そして警備も厳しく行なわれているべきだ。

計器での安全チェックは勿論だが人による現場のチェックを並行して二重三重の安全を計らなければならない。

恐らく原発は安全なのだという思い上がりが、この地震で暴露されたように思う。
反省の上に立って、万全の対策をしてもらいたい。





読売新聞の追悼抄を読んで

2007-07-26 11:54:00 | Weblog
今回の記事は元プロ野球スカウトの河西俊雄さん、元北九州市長の谷伍平さん、日本画家の白鳥映雪さんと明治大学名誉教授の堀敏一さんだった。
皆さんそれぞれの分野で立派な業績をあげられた方々だ。
四人の中で興味を引かれたのは白鳥さんと堀さんだった。
そして一番胸にぐっときたのは堀敏一さんの生きざまだった。

いつものようにバックパックを背負って書店へ向かう駅の地下道で倒れて六日後に亡くなられたそうだ。
八十二才でなお毎日探究の生活をされていた。
素晴らしい人生だったと思う。
羨ましい限りだ。

奥さんが遺品を整理していて、学徒出陣を間近に控えた中で手帳に記した堀さんの決意の言葉を見つけられた。
それは「学に生き、学に死す」という言葉だった。
そしてその通りの人生を生き通された、と奥さんは語っていた。

若い時に自分の進みたい一本の道を見つけ、ひたすらその道を歩み続ける、理想ではあるけれどできることではない。

自分にも思いはあったけれど、安易な道に方向転換してしまった。
過去は悔やまずこれからの少しばかりの時間は自分の目指すものをやってみよう。

堀さんの中国関係の本を読んでみよう。

蝉時雨

2007-07-25 15:39:39 | Weblog
毎年思うのだが、前の日には聴こえなかったはずの蝉の泣鳴き声がある朝突然一斉に聞こえ始めるような気がする。
同じ日に一斉に鳴き始めるとはないと思うのだが、毎年ある朝突然のように思う。
それにしても長い間土の中にいて、地上へ出たかと思うと、あっという間に一生を終えてしまう。
人間の時間のサイクルから見れば本当にせつなく哀れに思えるけれど、蝉にとってはしごく当たり前のことなのだろう。

それにしてもどうやって殻を脱ぎ捨てるのだろう。
理屈では解っていても自然の不思議は計り知れない。

ぶどうのアーチ

2007-07-24 11:51:01 | Weblog
七十センチ程の巨峰の苗木を昨年の秋に家内が買って植えていたが、春になっても一向に芽を出さなかった。
苗木の切り口は乾燥してしまったようで柔らかさもなく生きているようではなかった。
枯れてしまっているから引き抜こうか、と思ったけれど、折角植えたものだから、もう少し待ってみようと思い直して我慢していると、三月半ばに下の方から芽が出始めた。
植物の生命力は凄いとは知っていたが、改めて思い知らされた。
芽が出始めると直ぐに大きく育って棚から垂れ下がった巨峰の様子が目に浮かんできて、ぶどうの棚を作らなければ、と思った。

先ずどのような形にするかで、家内と意見の違いが露呈。
家内の案は柱を四本立ててその上に棚を乗せる形である。
そして私の案はアーチ形である。
製作するのは自分だから、彼女の案には耳を傾ける振りをしながら、無視。
あくまでもアーチにこだわった。
しかし直径が1.8mもあって、高さが2.3mのアーチの素材を何にするか悩んだ。
鉄工所に頼んで鉄でつくってもらうのが一番手っ取り早いけれど、それでは私が作ったことにならない。
私が作れるのは木以外にない。
そこで又問題です。
木で作るとなると、大きな板を買って、アールを切出してつなぎ合わせてアーチを作ればいいのですが、それでは工具も買わなければならず大掛かりになり過ぎます。
それならばと知恵を絞って、4㎝×2㎝×1.8mの木を積み木細工のよう組み合わせてアーチを作る方法を考えた。
家具を作るような木工の機械があれば、あっという間にできることも、一本ののこで切りあわせて行くのは本当に大変だったけれど、仕上って見ると満足感があった。

大きなぶどうの実は何時頃食べれるのだろう??

あかとんぼ

2007-07-19 21:45:56 | Weblog
あかとんぼが群れて飛び出した。
網を持って追いかけている子供たちに二度も出くわした。
自然を駆けまわる姿はいい。
遠い子供時代を思い出した。
しかし飛んでいるのはあかとんぼばかりだった。
自分の時代にはトンボもいろいろな種類がいた。

今でも懐かしく思い出すのは、トンボつりだ。
紐の両端におもりを結んで「けしな」と掛け声をしながら空へ高く
投げ上げるとオニヤンマがおもりを追いかけて飛んできて、紐に
絡まって、がしゃ、がしゃ、と音を立てながら落ちて来た時の喜びは
五十年も過ぎた今も頭に残っている。

昔の事を思い出すのは年のせいかもしれない。
太平洋戦争の開戦ごろの生まれだから歴史の中にはまってしまったような気がする。

台風直撃回避

2007-07-15 08:45:33 | Weblog
休むことなくテレビで映し出される映像を見ていると段段と恐怖に近い感情が湧いてきた。
そして台風の進路を示す解説図の予報円が大きいものだから自分の住んでいる地域へ進んでくるのでは、という不安が募って来た。

それでも台風が高知沖の太平洋を進んだから、強風圏の外側ぎりぎりの地点だったので思ったほどの風も吹かなかった。
被害を受けた地域の人には申し訳ないけれど一安堵した。

自然の力には手も足も出ない。
謙虚になって自然にかなった生活環境を作り出さなければならない。

本音は直撃が回避出来てほっとした。
直撃を受けた人々には心からお見舞いします。

お金

2007-07-13 10:42:00 | Weblog
一体お金って幾らあればいいのだろう。
沢山あるに越したことはないけれど、必要以上にもいらない。
年に2回ぐらいの旅行と好きなものを時々食べられる程度の余裕があればいい、と思う。
だが「おにぎりが食べたい」と書き残して亡くなった人がいる。
お金がないと生きて行けないのも現実だ。

六十五才を過ぎれば後何年生きるのだろう。
平均年令からすれば男は十年余り、女は二十年余りは生きるのだろう。
だとすればまだまだお金がいる。
年300万としても6000万もいる。少し余裕の生活をするとなると、7〜8000万ということになる。

年金生活者には大変だ。
健康生活をして、宝くじにでも運をかけてみるとするか。

親子心中とは悲しい

2007-07-10 10:45:10 | Weblog
悲しいことがおきている。
まだ若い二十七才の人が二人の子供と列車へ飛び込んで自殺した、とネットは勿論、テレビ、新聞で報道された。
何に絶望したのだろう。
愛だろうか?お金だろうか?世間だろうか?病気にだろうか?
子供が二人もいるのに男親はどうしたのか?おじいちゃんやおばあちゃんは?
友人は?近所の人は?行政は?
どうして誰も手を差し伸べられなかったのか?
頑張って、頑張っていたから、外からは分らなかったのだろうか?
悩んでいるのが見えても、どうすることも出来なかったのだろうか?
絶望は死の恐怖も麻痺させてしまうのだろうか?
それにしても二人の子供を連れて、迫り来る列車へ飛び込む母親の無念さを思うとやりきれない。

一体神や仏は何処にいるのだろう。
彼女の希望を叶えて、天国へ導いた、というのだろうか?


父と息子そして母と娘

2007-07-04 15:00:25 | Weblog
おかしなものである。
年々父に似て来たような気がする。
朝起きて鏡の前に立つ度にそう思う。
だが、家内は「おじいちゃんは、ゲリーク−パーみたいに鼻も高く、ほりも深い男前だったのに、それに引き換えあなたは全然似ていないわね」と顔の話になると、私のプライドに手厳しいアッパーを食らわせる。
そう云われると、そうなのかなあ、と思うのだが自分では不思議なくらい父に似てきたような気がしてならない。
今朝も起きて直ぐに、「ハアックション」とくしゃみをした時父の”くしゃみ”の様子を思い出した。
それが本当に不思議なぐらいよく似ていたので驚いた。

私とは違って、家内は母親と瓜二つ、という程よく似ている。
彼女の兄の友人などに会ったりすると、「おばさん かと思った」などといわれて、ちょっぴり嬉しいような、それでいて何か不満な感情になるらしい。

子供の頃、親と似ている、といわれると、そのようなことはない、とためらいのような気持があった。
しかし時間と共に少しずつ変化が起きて、親の鋳型に近付いて行くのだろう。
今の言葉でいえば、DNA上の道をひたすら歩いて来ているのだ、と云うだけかも知れないけれど、そう云ったことでは割り切れないものがあるが・・・・