ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

「改正法」成立とはいうけれど…

2019-12-04 22:40:38 | 「育」業
すでに自分はその仕事とは離れて関係ないとはいえ、今日は、気になる2つのニュースを見つけた。

1つは、
教員の「休日まとめ取り」促進 変形労働制導入で改正法成立


多忙と言われる学校の教員の働き方改革の一環として、忙しい時期の勤務時間を延ばすかわりに閑散期に休日を取れるようにする「変形労働時間制」の導入を可能にする改正法が与党の賛成多数で可決された。
改正案は、公立学校の教員について、忙しい時期の定時の勤務時間を延ばすかわりに閑散期に休日をまとめ取りできるよう、1年単位で勤務時間を調整する「変形労働時間制」を導入できるようにするものだ。

この考え方、おかしいなあと思う。
いつが繁忙期で、いつが閑散期なのだろう?
実は、いつでも繁忙期なのである。
気をゆるめて勤務できる時期など、学校にはないのだ。

考えてもみてほしい。
朝、勤務時間開始前に子どもたちが登校するから、それより早い時間に出勤するのは教育界の常識である。
また、一日の授業を6時間目まで終わると、もう午後4時である。
勤務時間終了まで40~45分しかないのである。
その時間に、今日の子どもたちの学習の成果のチェックと、明日の6時間分の授業の準備、そして気になった子どもの家庭との連絡や、職員間の情報交換や会議・研修などをしなければならない。
できるだろうか?
無理である。
仕方がなく、これらの仕事が一段落するまで勤務していると、それはもうブラックな職業になってしまうのである。
中学や高校では、ここに部活動の指導も入る。

そして、夏休みを閑散期と考えているようだが、とんでもない。
情報教育、道徳教育、英語教育、プログラミング教育…なんでもかんでも上意下達で決められて、教えられるようにしなくてはいけないのだが、それができるように研修する時間などないのだ。
必然的に、様々な研修を夏休みなどに集中してやらなくてはいけない
 休日をまとめ取りできる保証はないうえ、毎日の勤務時間が延長され、長時間労働が安易に助長されることにつながるということが懸念される。
 
実態を知らないまま、また変な法律ができたなあと思ってしまうのである。

これは、もう1つの次の記事と関係する。

先生足りないSOS 欠員でも代替講師見つからず 宮城の小中学校、現場でカバー限界

これは、宮城県に限ったことではない。
この記事の最後にある、定年退職者を講師としてあてがうなどということは、実は、すでに行われていることなのである。

現場を離れた私ではあるが、この2つの記事に、すごく考えさせられてしまった。
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学級文庫をつくろうとしていた頃

2019-10-24 20:01:47 | 「育」業

30年余り前、学級担任として仕事をしていた頃、毎月、給料からいくらかを出して、何冊か絵本や児童書を買っていた。
買ったその本を、教室の本棚に入れ、私的な「学級文庫」にするのである。
少しでも本を子どもたちに読んでもらおうと思ってのことであった。

今、物置にしている車庫の2階で片付け作業をしていると、その当時のいろいろな本が出てきた。
次の2つは、いずれも何冊かのシリーズになっていたのでそれらを買っていた。


「あした天気に十二歳」(薫くみこ;ポプラ社文庫 当時450円)
これは、今は絶版になっているようで、Amazonで中古本でも861円となっていた。


「キャプテンはつらいぜ」(後藤竜二;講談社 青い鳥文庫 当時390円)
これは、今でも売られているようで、Amazonで748円であった。
中古本だと、一番安くて12円。

今にしてどんな内容の本だったのだろうと、改めて読んでみた。
児童向けの小説だと、やはり子どもの心に響くようでないと人気はでないだろう。
「十二歳」シリーズだと、思春期の少女たちの繊細な心の動きや友情が描かれている。
「キャプテン」シリーズだと、野球チームのキャプテンとなってしまった主人公が直面する戸惑いや困難を乗り越えていく姿が描かれている。
あの頃、喜んで読んでいた子たちもいたっけなあ、と思い出してしまった。

やがて、「学級文庫」は、私が買うだけではあまり冊数が増えないので、学級の子どもたちの応援を仰ぐことにした。
子どもたちが自分で読んで面白かったからほかの人にも読んでほしい本。
子どもたちが自分で読んでしまって、しばらく教室においてもよい本。
そういう本たちを教室に持って来て、学級文庫に入れ、ほかの人たちに読んでもらうことに協力してもらうのである。
3月には、家に持って帰ってもらったが、
「先生にあげるよ。」
「次の(学級の)人たちに読んでもらって。」
などと言う子もいて、私の手元に残ってしまった本も何冊かあった。

その当時の本を改めて見てみると、自分が給料から買った本にも、子どもたちの持ってきた本にも、バーコードはついていない。
また、消費税もついていない。
そんな時代に、少しでも本を読んでもらおうとしてやっていたことであったと思うのである。
もうふた昔以上にもなってしまった、昔のことである…。

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駆け出しの頃の学年通信

2019-09-03 20:32:01 | 「育」業
9月になって、週明け2日目。
以前に比べて8月から新学期や授業日が始まる学校が多くなった。
それでも、9月になってから新学期という学校はまだまだ多いだろう。

夏休みの期間中に、生活環境や生活習慣が大きく変わった子もいるだろう。
精神的に大きな動揺を抱えている子もいるだろう。
外から見ていてはわからない、そういう子どもたちの微妙な変化に応じられないといけない教職員の方々は大変だろうと思う。
思うが、わずかに表れる変化を見逃さずに子どもたちを救えるのは、まずは教職員なのだ。
また大変な日々が始まったが、がんばってほしい。
一線を退いた私には、そう祈るばかりだ。

さて、そんな私が勤めていた頃のあれこれが、保管してあった段ボール箱からいろいろと出てくる。
初めて正式に採用された学校は、少子化による学校統合で10数年前に閉校となり、今はもうなくなってしまった。
その初任校では、18名の1学級を小学校4年から6年まで担任した。
今日は、その駆け出しのころの学年だより(学級だより)3年分を、改めて整理して1冊に綴じ込んだ。

思えば、この最初の「学年通信」の文字も下手くそだが、この頃は「ホワイトミリア」の印刷用ボールペン原紙に直接書いていたのだった。

今のように、パソコンがない時代だった。
ボールペン原紙でなければ、いわゆるガリ版で、鉄筆で書くしかなかった。
だから、文字は活字ではなくとにかく手書きの文字だったのである。
学年通信に描き入れるカットも、自分で描くしかなかったのである。

これなどは、クラスにいた女の子をモデルに(?)描いたものであった。

やがて謄写ファックスの機械が盛んになり、カット集の絵を使用できるようになった。

3年間で発行した学年通信をまとめて、パラパラと見ていると、それだけで自分の成長が分かる。
最初の頃は、自公のあいさつのような文章や連絡ばかりだったのだが、3年目には自分の意見もかなり目立つようになっていた。

そして、教え子たちが卒業する時には、一人一人の似顔絵を描いて、個々にメッセージや思い出・期待などを書いていた。

このような似顔絵付きメッセージは、その後も教え子たちが卒業する時には書いたのだったなあ…。

もう、この教え子たちは、すでに40代の後半を迎えているはず。
悪い話を聞かないので、あんな新米教師に教わった彼らも、立派に今を生きているのだろうと思う。

そのことが、将来の自立を一番のめあてとして育てる仕事をしていた私には一番うれしいことである。
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令和元年に、平成元年度の小学校卒業生たちと飲む

2019-08-12 21:25:36 | 「育」業
令和元年の今年。
「平成元年度小学校卒業生」の教え子が、先日、同窓会を開いて呼んでくれた。
同窓会とは言っても、集まったのは、男ばかりの10名ほど。
教え子といっても、すでに40代の働き盛りを生きている彼ら。
その彼らは、あれから30年余り経った今を、本当にイイ感じで生きていた。


すでに高校生となっている子どもをもつ男たちもいた。
高校3年生の子息をもつ2人の男。
高校野球でがんばって新潟県大会決勝まで行き、甲子園まであと一歩で敗れたA。
彼の息子も有望校で野球をやっていて、高3のこの夏の予選にかけていたのだそうだが、意外に早く負けてしまったとか。
でも、自らが高校で野球を教わった恩師が指導している高校に、息子も通わせたのだという。

外で汗をかいて働く仕事が多いというB。
その息子は、父親の姿よりも、母の職業である美容師へと進路を決めた。
「でも、あいつはオレが外で人のために働いていることをよく知らないんだ。オレは、わかってもらえなくても、やりがいをもってやっているよ。」と言っていた。

Cは、この日のために新潟に来たので、明日はすぐ東京に戻るという。
高校を卒業してから勤めた会社を辞めた後、ボクシングをするために上京した。
そのとき、口コミで連絡し合った同級生たちが新潟駅で見送ってくれた。
4回戦デビューしたときは、負けたけど、何人も横断幕まで用意して応援に来てくれたのはありがたかった。今でもその応援幕は家に保管してあるのだそうだ。
そして、母親が亡くなった時も、連絡しなかったのにいつの間にか仲間が集まって来てくれたのも驚きだった、と感謝しながら言っていた。


この代の連中(言葉遣いが悪くてゴメン)は、本当にじっとしていられなくてよく動くし、遊ぶことなど、楽しいことばかりが好きな者ばかりだった。
でも、口は悪くても、仲間のことを思う気持ちはとても深い、いい奴らだったのだなということに気付かされる。
Cのことでもわかるように、困っている仲間のことを見逃さない心をもっていた。

この日集まった彼らの中には、有名企業等に勤めている者は誰もいない。
しかし、皆、今充実感をもちながら人生を生きていると分かった。
これなのだ。
人が人とのつながりを大切にして生きている。
自分の暮らしにそれなりの生きがいをもって生きている。

決して偏差値の高い学校に進学させたり、有名大学から有名企業に進ませたりすることだけが教育の目的ではないのだ。
このように、目の前の子どもに学習する力をつけるだけでなく、将来大人になって自立して生きがいをもって生きていける力をつけるのが、教育の大切な務めだと思う。
そう思って、39年間仕事をしてきた。
それが間違っていなかったことを思わせてくれる夜であった。
気持ちよく杯が進んだ。

…久々の痛飲のおかげで、夜中から明け方、すばらしくズキズキとうずくような頭痛に苦しんだ私であった。


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アサガオの花が咲いた

2019-08-01 22:38:12 | 「育」業

6月に種をまいて、芽が出たアサガオ。
順調に成長し、今日8月1日、初めて花が咲いた。
咲いたアサガオの花は、うすいピンクだった。
(写真ではうす青く見えるけれども。)


以前ここで紹介したとおり、この種は、閉校となった小学校の子どもたちが育てたものをもらったものだった。
この種のもととなったアサガオは、去年の今ごろ、小学校に入学した子どもたちの手によって育てられていたはずだ。
それが、こうしてその1年後には、その入学した学校がなくなってしまっているという現実。
さびしいなあ…。

去年この種のもととなるアサガオを育てた子どもたちは、新しく通うようになった学校になじめているだろうか?
今は夏休みとなっているけれども、1学期の生活はスムーズであっただろうか?
今の学校で、新しい友だちがたくさん増えているといいな、と思う。
もっとも、少子化の進む地域だから、統合されても通う学校は、1学年1学級しかないけれど。

涼しげに咲いたうすいピンクのアサガオ。
花を見ながら、子どもたちの今とこれからの幸福を祈った。
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30数年ぶりに出てきた折り鶴と手紙たち

2019-07-19 19:46:07 | 「育」業

仕事をしていた時の身の回りのものを少しずつ整理している中で出てくるものがいろいろある。
この折り鶴を、手紙とともにもらったのは、まだ私が20代の頃だった。


先生おたんじょうびおめでとうございます。
先生には、へんなだけど、わたしとAちゃんで
ツルを31こ糸でつないでつくりました。
あとのこりすくない3学きもよろしくおねがいします。
せんせいおたんじょうびおめでとう
Y子 A より

私の29歳の誕生日のときだった。
手紙をくれたこの子どもたちは、小学2年生。
1年生で入学したときから担任していた子どもたちだった。
明るく元気な子どもたちとともに、伸び伸びと明るいクラスを作ることができた。

この手紙と折り鶴を見て、今改めてジンと来るものがある。
先生が喜ぶものを贈ろう。
手作りしてプレゼントしよう。
そんな気持ちが伝わってくる。
折り鶴を31こ、ということだったが、2年生の子ども2人が複雑な折り鶴を31個折るのにどれだけの時間がかかるだろう。
そう考えると、ありがたい気持ちが高まってくる。

この日は、ほかの子からもバースデーカードをもらっていた。


小学校2年生だと、3年生になるときに学級編成替えがある。
この子どもたちにも、私との別れの日が来る、ということはわかっていた。
でも、この子の、
「もし、ほかの学校へ行ったり、ちがう学年へ行っても、楽しくべん強させてやってください。
 いつまでもわすれないでいてください。」
という言葉が、胸を打つ。

私の誕生日は2月末。
別れは、ひと月後に迫っていた。
結局、この子どもたちとは、その3月末、異動でお別れとなった。
別れの日である離任式の日、互いに大泣きしたことを恥ずかしながら思い出す。

あれからもう、3分の1世紀、33年余りが経過した。
この子たちも、もう父や母となり、40代になっている。
それぞれに子どもがいたって、小学校低学年をはるかに越えている子が多いことだろう。

折り鶴には、願いを込めて折る、ということがある。
私の元気、幸せを願って折ってくれた子どもたちが作った折り鶴。
今、この折り鶴を見て、今度は私が願う。

このときの子どもたちが、
40代の大人になった今も、どうか元気でいて、
そしてこれからも幸せに生きていってほしい。

…と。







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写真の整理もまた難しい

2019-07-04 22:06:18 | 「育」業
7月になって、もう4か月がたつ。
何かというと、3月末をもって、大学を卒業してから38年間ずっと務めてきた仕事から離れたことだ。
その仕事をしなくなるということは、現職時代考えられなかった。
子どもたちの声が聞こえる建物の中で、その子どもたちに直接的あるいは間接的にかかわりながら、笑顔たくさんになるように努めてきたつもりだった。
それだけのやりがいをもって取り組む生活は、本当に貴重だった。

そうはいっても、毎日うまくいかないことの繰り返しだった。
なぜ?
相手の子どもたちだって生きているからである。
子どもだって、心をもっているからである。
すべてがこちらの思いどおりになる訳ではない。
そして、こちらが大人であっても、子どもの心が分かる訳ではない。
こちらから寄り添っていかないと、子どもだって心を開いてはくれない。
だから、難しい。
子どものことだから扱いなんか簡単じゃないか、と世間の人々が思っているほど、簡単なことではない。
やはり個々の存在をリスペクトし、そこからこちらが学ばないと、子どもたちはついてきてくれなかった。
時間的に場所的に、同じ子どもは一人もいない。
どうせ子どものことだ、同じじゃないか、と考えて手を抜くような人が教える学級は、間違いなく荒れていくのだ。
毎日が真剣勝負の日だったと、今、改めて思い返している。


…おっと、そんなことを言いたいために書き始めたのではなかった。


急に子どものことなどを書き始めたのは、昔の写真を整理し始めたから。


封筒や袋の中にポンと入れたままになっていた写真の何と多いことか。


捨てるもの、残すもの、スキャナで電子データにして残すもの…の3つに分類していった。
…とはいうが、簡単ではなく、見ると手が止まってしまい、昔の思い出に浸ってしまうものが少なくない。
そのせいで、いろいろと楽しいこと、悩んだこと、憤ったことなど、いろいろと思い出していた。


仕事をやめた後の写真の片付け。
これにもずいぶんと時間がかかりそうだ…。
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古書の始末

2019-06-11 22:23:12 | 「育」業
3月いっぱいで39年間勤めた職を完全に終えた。
この仕事をしている間、少しでも腕を上げよう、少しでも専門性を高めようと、毎月の給料から相当の金額を費やして専門書等を購入してきた。
最も多く購入していた頃には、毎月、多種類の教育雑誌の購入額だけでも1万円を超えていたし、それ以外にも専門書で1万円分くらいは買っていたものだった。
全部読んでいる時間など到底なかったが、自分の技量を少しでも高めようと熱心だった日々が懐かしい。
出張の帰りや休みの日などで出かけた時でも、大きな書店に立ち寄って買ってきたものも多かった。

なぜそこまでしていたか?
これは、決して法律で定められていたからではない。
たしかに、「教育公務員特例法」には、教員に対して「研修の義務」が定められている。
第21条に、「教育公務員は,その職責を遂行するために,絶えず研究と修養に努めなければならない。」と規定されているのだ。
だからといって、研修の義務が定められていても、月に何万円もつぎ込みなさいという訳ではない。
本の購入に金を使ったのは、やっぱり、自分が教えていることで、子どもたちに損をさせたくなかったから。
自分に力量が足りないと、ずっと思っていた。
自ら学ばないと向上しない、という考えで、本当にたくさんの本を買って学んできた。


この写真に見えるだけでも、
「自分が変われば組織も変わる」
「現場の変化が子どもを変える」
「民間校長、中学改革に挑む」
「説明しない授業の作り方が分かる算数の介入授業」
「先生が壊れていく」
…等々の書名が並んでいる。

非常にもったいないとは思うが、処分することにした。
とりあえず、こんなふうに段ボールに詰めたり、ひもで束ねたりして、車庫に運んでいる。

(「マンガ雑誌もあるじゃない」なんて野暮なことは言いっこなしにしてくださいな…。)

今日は、比較的新しい本を中心に、段ボール箱で3箱を荷物にして出した。
私の出身大学が、去年から「本棚募金プロジェクト」というのを行っている。
これに乗っかることにした。
この古書たちが業者によって買い取られたら、その金額が募金になるというものである。

自分の血肉となってくれた本たちとの別れはさびしいが、ほかの人の助けになるのならうれしいと思っている…。

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お別れのあいさつ

2019-03-26 19:51:22 | 「育」業
私は、今からちょうど50年前に小学校を卒業しました。
そして、大人になってから、39年間今の仕事をしてきました。
でも、その仕事も今日で終わりです。
あすからは、まだ何をするのか決まっていません。

あす」の「」…りがとう!
今まで大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。

あす」の「」…みません!
私におこられた人、いやな気持ちになったでしょう。
すみませんでした。

最後に、
」…「イシテル」よ~!
」…「き」だよ~!

お元気で。
さようなら!


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教え子R氏からの便り

2019-03-14 21:12:25 | 「育」業
私の今の仕事も、あと半月を残すのみとなった。
しかし、実質、もう年度末になっており、私の出番は昨日の働きで主なところは終わりといってもよい。
そんな今日、とてもうれしい便りが届いた。
1990年代前半の頃の教え子だったR氏(R君と呼ぶには、上から目線すぎる。もう現在の彼は十分に人生の成熟期を生きている)から手紙が届いたのだ。

このたび初めて、持ち上がった子どもたちを卒業させるのだという。
卒業学年担任は3度目だが、なかなかなれないとも書いてあった。

彼の書いた文面でいいなあ、と思ったのは、この職10年を迎えるが、まだまだ自分には力がないと感じる日々だとのこと。

その思いがうれしい。
「学び続ける者だけが教える資格を有する」
まだまだ未熟と思いながら向上を目指す。
この思いがないと、思い上がってしまって、成長がなくなってしまう。

私も、この職39年であるが、今年1年やってみて、やっぱり力不足だと感じた。
子どもたちと年齢が離れすぎているが、気持ちは寄っていくことができた。
ただし、パワーが圧倒的に不足している。
週3日間の勤務で、ぐったりしているくらいである。
気力・体力がないとやっていけない仕事だと、改めて思っている今である。

話を戻そう。
R氏は、学級だよりの1枚を同封してくれていた。
彼らしい、と思った。
まずは、その題名である。
彼を受け持っていた時のたより名と同じなのである。
でも、私より上をいっている。
副題に「~ぼくがぼくらしくあるために~」と書いてある。
そう、あなたがあなたらしく力を発揮してくれれば大丈夫。
そして、子どもたち一人一人が一人一人の個性を発揮したり認めたりしてほしい(していきたい)という願いが感じられる。
「どんなときも。」
うれしいなあ。
この思いを大切に、これからも力を出していってほしい。

そして、いろいろな点で、私の思いも引き継いでくれているような気がする。
「老兵は死なず ただ消え去るのみ」という言葉がある。
いよいよ、この職から本当に消え去ってもよい時期になったようだな…。
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