ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

娘よ(91)

2018-12-10 21:53:26 | 生き方
5年前、どうなってしまうかわからない混沌の中に、私たち家族はいた。
その渦の中心にいたのは、娘だった。
入院中、しかも集中治療室にいたために、私たち家族も、1日の中でわずかに決められた食事の時間にだけ入室を許されていた。
5年前は、入院しながらも、「三十路になりたくない!」とよく言っていた娘。
半年間入院しながらも、三十路を迎えるまでに退院したい、と言っていた娘。
それが、その年の11月下旬、日に5回も全身痙攣を伴う発作を起こして、決定的にひどいダメージを受けた、ということを思い出す。
あれから5年。
別の病院に転院した後、そこも退院してから4年2か月余りがたつ。
幸い娘は、立派に生き続けて、今年で三十路の中間年の誕生日を迎えた。


今年は、いつも娘のことを心配してくれていた埼玉の伯父が急逝した。
その報せを聞いたとき、最も涙を流していたのは娘だった。
伯父の葬儀等を行うために埼玉に向かうことになったが、それは、4年前の退院後初めての娘の遠出、外泊となった。
余計な刺激や疲れが、発作を招くことになりかねない、と医師に言われていたので、遠出は慎んできたのだが、今回はそういう訳にはいかなかった。
車に乗せて、埼玉までを往復したが、そうしても特に異状は起こらず、このくらいの旅行ならできそうだという確信が持てるようになったのは、幸いだった。
埼玉が、娘にとっても知っている土地だったというのが、大丈夫だった理由の1つかもしれないが。
来年は、埼玉から周辺の土地へ少しぐらい出かけてみようかとも思っている。
もっとも、今も朝晩ともに10数錠の薬を服用しているせいで、娘は眠気に襲われやすく、疲れないようにと毎日1時間半弱の昼寝は欠かせないのだが。

記憶障害の方は、数日前のことをわずかながら思い出せるときもあるが、今さっきのことを忘れてしまうことも多い。
だから、家では、毎日1時間ごとに何時に何をしたかや、食事のたびごとに何を食べたかなどを書く日誌を書いている。
書くときに困っているのが、何時に食事を食べ始めたか、どんなメニューを食べたか、特にみそ汁の具は何だったかなどは、確認したはずなのに、その1時間後くらいに確認すると思い出せないことがまだまだ多い。

そして、初めての土地や建物に入った時、方角や入口などが分からなくなってしまうことが多い。
埼玉に行った時に、初めて行った大規模な広いスーパーやホームセンターに行った時、自由に歩かせてみたら戻って来れなくて迷子になりそうになっていた。
病気になってから、そのようなことをつかさどる脳の機能が十分に働かなくなっているのだとわかる。
時間や方向の認識に関することは、まだまだ克服できないのが悩ましい。

5年前の今頃、入院中は、会いに行くたびに「髪切った?」と娘に聞かれたりした。
1か月余りで合計100回近くそれを言われたりした。
それだけ病状がひどかったということだ。
さすがに今はそれほどの頻度ではないが、同じ話題を2,3回口にしてしまうこともある。
「金子千尋って、日ハムに行ったんだ?」
「それ、この前も言っていたよ。」
…こんなふうに。

ただし、情緒に関することは、元来の性格そのままに戻っている、と言える。
喜怒哀楽はしっかり感じている。
悔しさに涙することもあるし、人の思いを慮って慰めてくれることもある。
昔のままに、楽しく笑って生きようとしている。
笑うことが大好きで、くだらないことをよく口にしては家族を笑わせようとしてくれる。
今も昔も、一家の笑いの中心である。
そのことは、親であるわれわれ、家族には、大きな救いとなっている。
だからこそ、記憶障害がもっともっと回復してくれないか、と思ってしまうのである。

でも、とにかく、HAPPY BIRTHDAY TO YOU !


笑いながら、回復の道を上り続けて行こう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする