今日は10月23日。
中越地震から20年もたつのだ。
時の流れが信じられないほどだ。
地元紙新潟日報は、別刷で特集版を出していた。
また、紙上広告では、1ページ使って次のようなものが出ていた。
ここのブログでも、この日のことは何度か書いてきたことがあったが、20年か、早いなあと思う。
中越地震でいつも思い出すのは、この地震の時は、まだ母が生きていたな、ということ。
この2日前に、母は最後の誕生日を迎えていた。
この地震が起こった頃、私は母や娘と、サッカーJリーグ中継を見ていたのがちょうど終わるところだった、という記憶が強く残っている。
当地では大きく揺れはしたが、それに驚きはしても、幸い被害はほとんどなかった。
その半年後、母はこの世を去った。
母の場合は癌で余命半年の宣告を受けていたのに、それ以上に生きることができた。
だから、日々、悲しみの準備はできていた。
でも、地震のような突発的な災害で家族の命を奪われた人たちの悲しみはいかばかりかと思ってしまう。
中越地震については、最大震度7を記録。死者68名。負傷者4795名。全壊3175棟。半壊・一部損壊約11万棟以上などの被害記録が残っている。
新幹線が脱線し動けなくなったり、その作業中に大きな余震が来たりしたのは、私たちの記憶に残っている。
当時専門学校生だった娘は、長岡の寮に入っていたが、地震のあったその日は、たまたま帰省していたから、被害にあわずに済んだ。
だが、約1週間後に長岡に送っていくと、つぶれた家や、
ぺしゃんこになった古い工場のような建物、
七目に倒れかけた電信柱や地中から地上にせり上がって柱のように出ていたマンホールなどを見て揺れの激しさが分かり、驚いたものだった。
娘の入っていた寮の部屋では、様々なものが落っこちて悲惨な状況になっていた。
あれから、7年後には東日本大震災が起きた。
そこから13年たって、今年は能登半島地震が起きた。
遠く離れた新潟市西区周辺でも、家の倒壊や道路などの大きな被害が出た。
地震や自然災害は、いつ、どんなことが起こるか分からない。
だから、しっかり備えておかなくてはいけないという戒めを与えてくれている。
それと同時に、年齢が上がってきたら、いつ死んでもいいようにしておかなくては、ということも考えるようになってきた。
終活、身を入れなくては…。
まだ早いと思っていてはいけない、と思いを新たにしている今日であった。