ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

8月6日。「いつも見ていたヒロシマ」(吉田拓郎)と「八月の歌」(浜田省吾)

2020-08-06 21:42:26 | うた
8月6日。
言わずと知れた、広島に初めて原爆が投下された日。
もう、その日から75年の月日が経過したことになる。
75年!
自分が生きてきた年を考えてみると、被爆した年代というのはずいぶん年上の人たちのような気がしていた。
ところが、こうして自分も63年余りも生きていると、その年の違いが「わずか12年しかない」と思うようになった。
12年は、干支でいうとひと回りしかない。
自分も、たしかに「戦争を知らない子供たち」なのだけれども、今生きている大半の人たちからすれば、近ごろは、十分に「戦争に近い」世代だと言えるような気がしている。

自分より上の戦後世代の人たちであれば、なおさら「戦争」を意識しただろうなと思う。
私よりも10歳年上であれば、まさに戦後1,2年後に生を受けた人たちだから、「反戦」をうたったのは、当然であったと思う。
最も多かったのは、フォークソング。
反戦や権力への抵抗を歌うのが当たり前だった。
フォークソングなのに、「僕の髪が肩まで伸びて君と同じになったら 町の教会で結婚しようよ」なんて歌っていた吉田拓郎は、そういった反戦平和の歌を歌うシンガーたちと比べて軟弱なイメージをもたれてしまったりした。
それで、「帰れコール」を浴びたりもしたのだったが。

しかし、吉田拓郎は、ただそんなヤワな存在ではなかった。
やがて、そんな愛の歌ばかりでなく、骨太な歌も多くなっていった。
彼の生誕は鹿児島県だったそうだが、出身地は広島県となっている。
広島と言えば、やはり被爆した都市のイメージがある。

その彼が、アルバム「アジアの片隅で」の中で歌っている曲に、「いつも見ていたヒロシマ」というのがある。

作詞は、岡本おさみによるものだが、拓郎の心情を表現している内容だと思う。
八月の光がオレを照らし 」で歌い始まるのは、やはり8月6日を意識しているのだろう。
2番には、次の歌詞がある。

時は忘れ去る 幾千のごまかしを
時は汚してる 幾千のやさしさを
焼きつきた都市から 確かな愛が聞こえる
子供らに オレ達が与えるものはあるか
安らかに笑う家はいつまであるか
いつもいつも遠くから 遠くから 見ていたヒロシマ


やはり遠くにいても、出身の広島のこと、次世代の子どもたちに対しての責任などを、自分のこととして強く受け止め、歌っているように思える。

吉田拓郎と同様に、やはり広島県出身で、愛だけでなくメッセージ性の強い歌も歌えるソングライターに、浜田省吾がいる。

アルバム「J.BOY」に収められている「八月の歌」、その2番。

八月になるたびに “広島―ヒロシマ”の名のもとに平和を唱えるこの国
アジアに何を償ってきた
おれ達が組み立てた車がアジアのどこかの街角で焼かれるニュースを見た
今日も Hard rain is fallin'. 心に Hard rain is fallin'.
子供等の肩をうつ
飢えてゆく すさんでゆく 
明日への希望など持てないまま


八月になるたびに “広島―ヒロシマ”の名のもとに平和を唱えるこの国
と、広島と日本を指して、「アジアに何を償ってきた」と、もどかしさを歌っている。
今日も Hard rain is fallin'. 心に Hard rain is fallin'. 子供等の肩をうつ
と、やはり自分の国と子どもたちの未来を不安視して歌っている。

8月6日。
戦争の悲惨さを忘れていないか。
広島のことから訴えられることがある。
核兵器の誇示よりも子どもたちの未来を考えることの方がよほど大事なはずだ。
吉田拓郎も浜田省吾も、それぞれの歌を歌うことで2人とも同じメッセージを訴えていると感じる。
これらの歌は、どちらも1980年代の後半に出されたものではある。
しかし、30年余りたった今でも、この歌の根底にある思いの重要性は変わっていない。

パンデミックの状況下、大国が自国の強さを誇示しあうような現在の世界情勢の中で、今こそ日本が、私たちがなすべきことは何か、を考えなくてはいけない。
そう思う、2020年の8月6日である。
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