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週に2回とはいえ、走るのが当たり前のようになってきた。
そして、ハーフマラソンは普通に走り切れるようになってきた。
自分のことをおいといて、近頃は走る人が多くなったなあ、と思う。
大会に出たりすると、その人数の多さに驚くこともある。
みんな、どんなことを考えて走っているのかな?
走ることについて、どんなふうに考えているのかな?
などということも、時折考えるようになった。
それは、毎日走って練習がんばっています、などと言えるレベルの人の考えではなく、私のようなごく一般人のランナーについてのものである。
走ることって、何?
そういうことを思うようになってきたとき、書店で村上春樹が「走ることについて語るときに僕の語ること」という本を著していることを知った。
あの毎年ノーベル文学賞の候補にも挙がる人が、そんな本を書いていることを知らないでいた。
読んでみると、走ることだけではなく、小説家になる頃のことやなろうと思った動機などについても書いてあり、なかなか興味深かった。
2005年から2006年にかけた時期に、走ることに関することを中心にして、書いていたものだった。
彼は、私のような「なんちゃってランナー」ではなく、きちんと毎日走っていた人だとわかって、驚いた。
しかも、40代後半で3時間30分前後で走っていたというのだから、私とレベルが違うなあ、とも思った。
まあ、もう少し早く走り始めていれば…とも思うが、その少し早い頃に私は2,3kmくらいなら走れていたけれど、5km,10kmを走るようなことはなかった。
そんなことはどうでもいいのだが、読みながら、自分との共通点をいろいろ感じることができて楽しかった。
走る時には、何も考えていないこともそうだ。
“僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。”
“いずれにせよ、僕はもう一度「走る生活」を取り戻している。けっこうまじめに走り始め、今となってはかなり「真剣に」走っている。それが五十代後半を迎えた僕に何を意味することになるのか、まだよくわからない。”
まだほかに、小説と走ることの関係とか、初めて42㎞を走った時や100kmのウルトラマラソンを走った時のことなども、出てくる。
新潟県の村上市のトライアスロンのことも出てくる。
2005年のニューヨークシティーマラソンへの出場と好記録を目指して走っていたようだが、うまくはいかなかったようで、しばらく時間をおいてから軽く扱うだけにして書いていた。
また、トライアスロンでの失敗を払拭したりするところも書いてあり、面白かった。
人間らしい感覚、とでもいうのだろうか。
内容的には大したことは書いて無いところでも、スポーツ選手のドキュメントを読むよりも、深く感じるものがあった。
さすがに小説家、豊富な語彙と表現で文章が書かれていたために、飽きることなく読み進むことができた。
走ることに関するエッセー集、ととらえることもできるが、小説家村上春樹の人生が語られていて、単純にエッセーとは言えないようにも思う。
走ることについて、よい一冊に出合った。