『自分の思いどおりにならないからといって、その人をじゃまもの扱いするようでは、まだ本物の信仰者とはいえません。「この人は嫌なんだ」という見方を、一度離れてしまわなければならないのです。
「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」という道元禅師のお言葉があります。
自分のものさしをつくって、この人は好きだけども、あの人は嫌いだ、健康はいいが病気は嫌だ、好景気はいいが不景気はごめんだ、と決めつける見方を捨てて、すべてを仏さまのおはからいと受け止める。
難題は自分のゆがみや足りなさを教えてくれる大切な宿題だと考える。そうなってこそ本物です。
難題から逃げずに真正面からそれと向き合うのは、苦しみが伴います。しかし、そこを乗り越えると、不思議に思いどおりにならなかった相手や問題が、いつのまにか変わってしまっているのです。平穏無事に毎日が過ぎるに越したことはないように思えますが、そういうときには、真剣に自分を見つめ、人生の意味について考えることがなかなかできないのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より