『「日蓮はかねどもなみだひまなし」というご聖人のお言葉があります。その日蓮聖人の涙は、法華経に遇うことができて必ず成仏できることを保証されたわが身のありがたさに打ち震える涙なのです。
このお言葉は、佐渡に流されて再び生きて帰れるかどうか分からない日々の中で著わされた『諸法実相鈔』の中のお言葉です。その流罪の地の生活は、刑場の近くに建てられた、わずか畳二畳分の、壁はくずれ落ち、雪が降り積もって消えることがないというお堂での毎日でした。しかし、日蓮聖人はその流罪の大難さえも、法華経を身に体して読ませてもらえるお手配と受け止められているのです。
この経に「如来の全身います」とあります。本当の感激をもって法華経を読むと、仏さまが目の前で一語一語、私たちに語りかけてくださるお声が聞こえてきます。欲得にとらわれ、毀誉褒貶(きよほうへん)に振り回されて些細なことで一喜一憂していた人生観がガラリと変わってしまいます。人間として生を享けることができた喜びに、じっとしていられなくなってくるのです。この大歓喜を生じてこそ人は作仏(さぶつ)できるのです。』
庭野日敬著『開祖随感』より