『法華経には、石を投げつけられようが杖でたたかれようが、一心に相手を拝み続ける常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の礼拝行が説かれています。そしてもう一つ、自分に仇をなす相手をもお師匠さんと拝む「提婆達多(だいばだった)が善知識」の礼拝行が説かれます。この二つの礼拝行を忘れずにいれば、信仰者として合格だと思うのです。
「こうなってほしい」「ああなってほしい」と、自分にとって都合のいいことばかりを願っていると、それがことごとく裏目に出て、いつもしかめっ面でいなくてはならなくなってしまうことが多いのです。あれこれと心配ばかりしていると、その心配したとおりの結果になりがちなのですね。
ですから、どんなことが起ころうと、どんな人に出会おうと、「これが自分の修行課題なんだ」と心を決めてしまうのです。
そう心が定まると、自分のほうの都合で、いい悪い、好きだ嫌いだ、と選り好みするのでなく、なにごとも向こうさま次第の考え方ができるようになってきます。やってくるものは、なんでも真正面から受け止めて全力を尽くせばいいのだ、と腹がすわってきます。』
庭野日敬著『開祖随感』より
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