斑鳩方面に行く時、王寺の町を通過するコースをとると、上のような「達磨寺」の大きい看板の駐車場を何度も目にしていたが、今回初めてお寺にお詣りした。
お詣りしたというより先日テレビで、王寺町のユルキャラのことが放映されていたのを思い出し、それと関わりのあるお寺だとのことで、そんな程度の予備知識だけで訪れた。
門が2か所にあったので、どちらが山門かわからなかった。どうやらこちらの方らしく、下の画像のような石標がこの門の脇に立っていた。
ずっと奥の正面の建物が本堂である。
宗派 : 臨済宗南禅寺派
聖徳太子ゆかりの寺。達磨が祀られているのは大和地方では珍しい。この地で瀕死の旅人を見つけた太子が、衣食を与えて看病したが、翌日死亡してしまった。亡骸を葬ったところ数日で消えてしまい、あとには太子が与えた着物のみが残っていた。これは達磨の化身であったのではないかと考えた太子は、堂を建て自らが彫った達磨像を安置したといわれる。境内に残る方丈は寛文7年(1667)に建立されたもので、奈良県内でも類例の少ない本格的な方丈建築である。また、数々の寺宝が安置されており、木造達磨坐像(重要文化財)や聖徳太子像(重要文化財)、絹本著色涅槃図(重要文化財)などがある。
平成16年4月には、老朽化に伴って再建された新本堂が完成している。
こちらの門は駐車場からの門で最初は私はここから入った。
境内には見事な根を地上に伸ばした藤棚があって驚くばかりだ。来年はきっと藤の花の頃この藤棚の下に立ってみようと今から楽しみが一つできた。
この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。
片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条[1]や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
達磨大師が植えた竹が1夜にして伸びたという伝説の竹がある。
聖徳太子の愛犬で元旦に鳴くといわれる雪丸の像
みなさん、こんにちワン。私は飛鳥時代に産まれ、聖徳太子のペットとして生きてきました。その時代に出会った達磨大師を慕い、達磨大師のお墓の丑虎(北東)に葬っていただきました。達磨寺に立派な石像を作っていただき、そこから現在も王寺を見守り続けています。(王寺町のタウンページにこのような雪丸君の御挨拶があります。)
雪丸は王寺町のユルキャラで、王寺町のイベントなどには人気者として出演しているそうです。
いつも目にし乍ら通過していたお寺が、聖徳太子や達磨大師の所縁のお寺であることを知った。