カフェテラス

テラスの片隅で一人心に呟くように

大阪府立 近つ飛鳥博物館

2013年01月31日 | ちょっとおでかけ

 

  

 

          

このまま石段を上ると、まるで別世界へ誘われるようです。次に打ちっぱなしの高い高いコンクリート壁の何処までも続くような道が、近つ飛鳥へと招待してくれるのでしょうね。安藤忠雄先生の設計になる博物館です。 

 

 

展示は三つのゾーンに分かれていました。①は近つ飛鳥と国際交流。ここでは古代日本は朝鮮半島や中国大陸の国々盛んに交流しながら国の決まりを作っていきました。

②は日本古代国家の源流。古墳の形や埴輪の世界、そして巨大な古墳を造っていきます。

③は現代科学と文化遺産。昔のことを調べるのに役立っている現代科学の大切さを展示物で実証しています。   

   

高い位置から先ず全体を眺めながら、下へ下へとスロープに誘導されるように降りていきました。

         

私は埴輪を見ることが好きなので、写真にはやはり埴輪が多く見ることができます。奈良県内の古墳から出土した埴輪も何点か並んでいましたので、さらに興味を持ちました。 

 

  

反対側の上から見て写真に撮るべきでした。仁徳稜古墳の模型で直径10mのこの大きさは、実物の150分の1だそうです。古墳造りや、人々の様子を表していますが、画像にはうまく入れることができませんでした。

①から③までを実物映像、模型など視覚によって、難しい歴史の学問でなく、興味を持って自然に学べるように構成されていました。

 

 

仁徳稜の模型の周りをこのように沢山の埴輪で取り巻いています。 

 

約8mの十三重石塔が、博物館の吹き抜けのような位置を占めていました。 これが奈良時代前半に造られたものであることで修復した模型とはいえ、この塔から見える古代をいろいろと想像します。 

  

 

駐車場に出ると、紅梅の膨らみかけたのを見かけて、この日はだいぶ暖かい日だったので、春を感じた梅を見かけて、そぐそこに来ている春を嬉しく思いながら、博物館のお勉強の時間が、ここでほっとした感じでした。

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金剛山の向こうの水仙の咲く村 千早赤阪村

2013年01月30日 | 季節の花木

大阪市で唯一の村、千早赤阪村は、楠木正成生誕の地です。
歴史探訪をした時、ふと立ち寄った5万本の水仙が咲くという小高い丘でした。
『今年は遅い』そうです。後2週間後また訪ねたいものです。

・別名
 「雪中花(せっちゅうか)」、
  雪の中でも
  春の訪れを告げるので。  

デジブック 『水仙の咲く村』

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丁稚(でっち)ようかん

2013年01月29日 | ★ 日々の呟き

 

  

暫く雪空で、朝日を見ることのできない日が続きましたが、今朝の東の空には、雲があるものの、大台山脈から昇った朝日が、明るい朝の光を与えてくれました。こんな日は、なんとなく朝の家事も早く片付きます。

 

 

5万人の森の、産直へ買い物に行きました。メモをしておいた買い物を済ませて、各地から持ち込まれた野菜やお菓子などを見ているとき、目に付いたのが、この丁稚ようかんです。 4人分くらいのお八つになりそうです。

子供の頃には、近くの駄菓子屋さんで冬になると売っていました。 こんな容器に入っているのでなく、もろぶた(搗いた御餅を並べる木の入れ物)くらいの大きさで、もっと浅い木の箱に並んでいて、切り目がうまく入って、注文した数だけ、竹のへらのようなものですくって、ヘ木(薄く削って作った船のような容器)におばさんが入れてくれるのを、落とさないように家に持って帰って食べた嬉しいお八つでした。

 

  

なぜこれが「丁稚ようかん」という名が付いたのか、そんなことさえ考えもしないで、そんなに甘くないので小豆の味が美味しくて、いくつでも食べれそうでした。

 ウィキペディアで調べてみました。

『丁稚がお盆で帰省する時にみやげとして買える手ごろな値段の羊羹の意味だといわれる

  丁稚(でっち)とは、江戸時代から第二次世界大戦終結まで行われた商店主育成制度。またはその制度によって入門したばかりの者をさす上方(関西)のことば。

上方ことばの丁稚に対して江戸(関東)ことばでは「小僧」である。』

 これを読んでいて、駄菓子屋さんで子供が小遣いで買える値段で売っていたことも納得できます。懐かしくて買ってきました。甘さ控えめで、今時のお茶にもよく合いそうです。

 

  

製造元を見ますと、西吉野町のおかあさんの手作りの丁稚ようかんでした。

京都や、近江八幡などのお土産の丁稚ようかんは、竹の皮に包んであって、やや高級感がありますが、産直での丁稚ようかんは、今もやはり懐かしい庶民の味、下町の味のようで、気に入りました。  

 

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初「歌いましょう会」

2013年01月28日 | ★ 日々の呟き

  

  

 

昨夜来の雪で周りの山々には、白くなっていました。予報では今日も1日雪が降るとのことで、朝のうちは大雪注意報が出ていましたので、午後からの今年初めての「歌いましょう会」に行けるかどうか、気がかりでした。

予報はいいほうに外れて、雪は降らず、冷たい金剛下ろしの風が吹いていました。 

 

  

会場へ行く途中の廊下に、こんなオブジェというか、飾りがぶら下げてありました。材料は綿の実です。 白いのはよく見かけますが、茶色いのも綿でしょうか。とにかくカメラに戴いて、部屋の中で作品作りをしている何人かの人のいるのを見ながら、カラオケセットのある会場へ急ぎました。 

1月も終わり近い初歌の会でしたので、季節の歌から始まりました。 ♪ 雪山賛歌・早春賦・雪・雪の降る町を ♪

その後今日の練習の歌「天川しぐれ」を、何度か練習しました。久しぶりで、退職者の会の人と出会い、歌い、語った楽しい時間でした。

       

帰りに玄関ロビーに展示してある作品をゆっくり見せてもらいながらカメラに戴きました。 3枚目の帽子と色違いの作品を、以前に気に入った色だったので、購入しました。紬の布の6枚接ぎでリバーシブルの、被り心地のいい帽子で、気に入って愛用しています。

「どんなグループなのですか」と尋ねたら、憩いの家「えにし(縁)」のグループで造っていることを話してくれました。

「生きがい事業として古布(和布)の小物作り商品部が発足しました。」と書いたパンフレットを戴きました。そこには、「五條市老人憩いの家で仲間と楽しみながら、和気あいあいと小物作りをしております・・・製作メンバー19名・平均年齢65歳と可愛いイラストの中に書いてありました。 古い着物をほどき、鞄、帽子、コサージュ、コースターetc 素敵な小物に蘇っていっます。新町通りの「まちや館」・老人憩いの家の2箇所で販売しています。とパンフレットでアピールされていました。

元気印の皆さんが、日本古来の布を現在にうまく蘇らせて販売していることに、パワーを貰って、「歌いましょう会」の楽しかった余韻とともに、憩いの家を「えにし」の人に見送られて帰りました。

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河内観心寺

2013年01月27日 | ちょっとおでかけ

  

 

光の加減でシルエットとなってしまいましたが、騎馬像は楠木正成公の像で、観心寺の門前に勇ましい姿で迎えてくれます。観心寺は楠木正成ゆかりの寺であることを示しています。 

  

南北朝時代の歴史の中に足を踏み入れるような感じで、境内への石段を登りました。 

   

正成が学んだという中院が本堂への途中にあります。 

      

石段を上り詰めると、国宝如意輪観音をお祀りした金堂があります。後醍醐天皇が正成に外陣造営の勅を出したのが、この金堂だといわれています。お堂の前には弘法大師礼拝石があります。

ここでのお線香は立てないで寝かすようにと書いてありましたので、二つのお願いの書いたお線香を2本並べて横にしました。何か訳があるのかしら、他のお寺ではこんなお線香のあげ方は何処でもしたことがありません。 

 

   

新しい藁屋根の葺き替えが終わったばかりのように美しいお堂がありました。 お堂の前には「重要文化財・建掛堂(たてかけどう)と書いた立て札があります。このお堂は実は、名前の通り完成することなく建て掛けられたまま、長い歴史を今日に繋いでいるのです。

観心寺 建掛塔(重要文化財) 大阪 楠正成の発願によって三重塔として建て始めましたが湊川の戦いで戦死したことにより、建設途中で未完のままとなったものです。この塔は初重を作っただけで終わっています。 

       

何度も観心寺へはお参りしていますが、この5枚の画像辺りには、足を踏み入れていなかったので、今回は人気のない寂しい所だったのですが、行ってみました。けれど後村上天皇陵への石段の先が見えず、何処まで続くのか少し不安で、この位置から引き返してしまいました。

戦いに敗れた楠木正成の、首が足利尊氏によって、正成の妻子のもとに届けられ、ここに首塚としてお地蔵様に見守られながら眠っているのだとのことで、南北朝時代の結末の悲哀のようなものを感じました。 

 

 

コメント (8)
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