今夜は満月だ。庭を明るく照らしている。
うまく写ればいいが…と思いながら、柱に体を持たれて固定してシャッターをきった。
家の中もまだお昼の暑さが残っている。
外の方が少し涼しく思える。
このまま、もう少し外で涼んでいたいが、虫に刺されそうで、早々の部屋にはいった。
最高に暑い日、最高に綺麗な月を見た。
今夜は満月だ。庭を明るく照らしている。
うまく写ればいいが…と思いながら、柱に体を持たれて固定してシャッターをきった。
家の中もまだお昼の暑さが残っている。
外の方が少し涼しく思える。
このまま、もう少し外で涼んでいたいが、虫に刺されそうで、早々の部屋にはいった。
最高に暑い日、最高に綺麗な月を見た。
洞川にごろごろ水を汲みに行く時、「丹生川上神社下社」の前を通るので、時々立ち寄ってお詣りをしたり、白い馬を見たりして、1番身近に感じるのが「下社」でこのブログでも何回かUPしてきた。
次に川上村へのドライブの途中、道の駅で休憩した時、ホテル杉の湯の向こうのトンネルの手前に、「丹生川上神社上社」の大きな道しるべが見えて、そこからすぐ上にある神社にもお参りした。この神社は元は大滝ダムの底に沈む計画になっていたのを、ダム建設に当たって、ダム湖を眼下に見下ろせる場所に移転した神社で、由緒は古いけれど神殿は新しく立派な所だった。ここもこのブログにUPし、その時に、いずれも水の神様として丹生川上の社名を持ち、「下」「上」の神社だから、「中社(ちゅうしゃと読むのが正しいそうである)にも、必ずお詣りしたいと前々から思っていた。
うだるような毎日、「五條より涼しいだろうから…」と場所の決めずに出かけた、東吉野村に入ると、「丹生川上神社」という標識が何度も目に入り、これはきっと神様のご縁ではないかと目的地を「丹生川上神社中社」ときめて、深い山の中をひたすら標識に誘導されるような形でここに辿り着いた。
東吉野村の『丹生川上神社 中社』は、3社の中で最も東側に位置します。かなり山深い場所になるため、車の通りも少なく、のどかな鳥の鳴き声と、すぐ前を流れる高見川の水音が響く、とても静かな場所にあります。
御祭神の「罔象女神」(みづはのめのかみ。弥都波能売神とも)は、古事記の神産みの中で、火の神カグツチを生み、陰部を火傷してしまったイザナミの尿から生まれたとされる女神です。なかなか変わった出生の秘密をお持ちの神様ですが、日本では古くから重要な水神として祀られてきました。 上記サイトにリンクさせていただきました。「奈良にすんでみました」
冷たい水が龍の口から流れ出る手水舎で、手と口を清める。
石灯籠1対は重要文化財に指定されている。
「叶え杉」見事なご神木の杉だ。私はこの木肌に両手を回して(とても届かないが)木に耳を当て木霊に語り掛けるように、この足でいつまでも歩くことができますようにと、1番健康で気がかりな膝の痛みについてお願いした。
木肌の温もりが優しく頬に伝わってくるような気がした。
水神様からの恵みのお水なのだろうと、思いながらこの井戸の蓋の重さは私の手には負えないようだ。
濃淡の緑は、爽やかな山の風を運んでここは、夏忘れのパワースポットのようで、境内のあちこち散策した。
拝殿にお詣りする。ほかに何人かのお参りの人があった。
拝殿から本殿への登り階段を横から見る。檜波田ぶきの屋根が美しい。
本殿の領域(神域)を守る苔むした石垣の間に、赤い車ユリさりげなく咲いているのがいい。
車ユリだけでなく、白百合も交じっていて、緑の苔に包まれた石垣の優雅なアクセントになっている。
相生の杉への石段とても私の足には、無理なので下からお参りをする。夫婦円満は娘や孫夫婦の、家庭を思い、私は自分の健康長寿を祈願した。
木霊神社は石段登りのため下からのお詣りとなる。
石に彫られた由緒は読みにくいが、この神社は「吉野離宮跡」であるようだ。
境内の中に道路に面した所に、この碑が建っていた。
境内の別の入口の鳥居の両側に建っている巨石は、「爺婆石」というそうだ。説明の写真を撮ったが、
もっときちんと撮ってくればよかったと反省しきりである。
神社の外の道路である。「丹生川上神社」の幟がずっと高見川に沿って立っている。
セミが鳴いていたのかしらと今になってふと思う。
「静寂」に包まれていたので、暑苦しいセミの鳴き声は全く耳に印象付けられていなかった。
念願の丹生川上神社中社にお詣りできた嬉しい日となった。
東吉野村へ出掛けた。「五條よりは少しは涼しいだろうから。」その言葉と車に乗せられて、緑の山中をこれといった目的もなく、とにかく今日の暑さから少しでも逃れられたらいいなぁと思い、ちょっとお出かけした。
走っているうちにきっとどこか目的地になりそうなところが見つかるだろうと、カメラは忘れずリュックにいれた。
美しい川に沿って走る。何川だということは、あちこちでもらって集めてきたパンフレットの地図で、どうやら「高見川」じゃなかったかと
見当をつけた。
「アツ!鮎釣りをしてる。見たいから車停めて。」 と言っても道路の幅が狭い山間部では、対向車が来たら大迷惑になるので、道幅の広いところがないかと、川を気にしながらゆっくり進んでもらった。
対岸に渡る橋が見えたので、そこを渡って橋の上から川上と川下の二人の釣り人を、写させてもらった。
ここに来るまでにはもっと沢山の人が釣竿を川に浮かべていた。
しばらく眺めていたけれど、なかなか魚は上がらないようだったので、気分だけは川に入っている涼しさを、貰って先に進んだ。
そういえば、写真を撮るために外に出ている時も、太陽直下だったけれど、いい風が吹き蒸し暑さもなく気分爽快だった。
昨日の続きです。
花弁がひとひら落ちたこの蓮は、もう閉じたり開いたりの日々を過ごし、種をしっかり宿して行くのだろう。
蕾はまだまだたくさん見られる。
これから8月の中ごろまで藤原宮跡では、蓮の花の宴が続いていくだろう。
緑の大きな葉っぱに守られるように咲く清廉な花を、昨日と同じ舞台に立って、私はあなたを見つめて、何度も蓮池の周りを散策した。
私の持論は、同じ場所に咲く花であっても、あなたは去年のあなたでないこと。
泥田の中からこんなに美しい花を咲かせるあなたの優しさに今年も触れられたことはなんと嬉しいことだろう。
こうして毎年毎年あなたを待ち、あなたに癒される時間を持てることは、生きていてこそ望めることであり、当然とは決して思わない。
蓮の花はだいたい4日間開花しては夕方花を閉じ、明日また音もなく静かに開花する。
その営みを繰り返して、美しさを見てくれる人にまるでアッピールするかのように、ひとひらまたひとひらと池の面に或いは大きな葉っぱに落として、次世代への命を繋ぐ種を日光に十分晒し乍ら、その一生を閉ざす。
だから私はどの花もみんな愛おしい。
直感的にシャッターを切って、あなたとの出会いの記録とする 。
美人であろうがなかろうが、出会えたあなたとハグするような気持ちであなたをみつめる。
そんな出会いをカメラに残したのを、「今」を大切に生きる私の生の証として、藤原宮跡の睡蓮の花たちを、今年も
順次ここに残して置きたい。
花の隙間にこんな空間を見つけた。これから何日かかかって、美しく開花する準備を彼女は、池の鏡に自分を映しているのだ。
真っ直ぐな細い茎が、水面に映っていたはずだったのに、水面を移動した小さい魚に水面の輪でもって歪んでしまったけれど、
そんなのは平気、あなたが水面の上で伸びやかに開花の日を待つ。