四代目三遊亭小圓朝師が十五日の朝、肺炎のため四十九歳の若さで亡くなったことを、今日の訃報で知る。
まう十年近く前、東京都北区王子の文化ホール「北とぴあ」で催されたイベントに特別ゲストとして招かれ、ご当地ネタ「王子の狐」の口演を聴ひたのが、私が小圓朝師を知った最初だ。
無駄なこと、余計なことを一切挟まず、純粋に噺を聴かせる正統派の藝風にすっかり魅せられた私は、いらい小圓朝師を目当てに、「両国寄席」通ひが始まった。
また、この頃は三鷹駅前にある武蔵野芸能劇場を会場に、「むさしの 小圓朝の会」といふ独演会も数ヶ月ごとに開催しており、こちらも毎回楽しみに出かけてゐた。
上の写真はその時の“お楽しみ抽選会”で当てた手拭ひで、いまとなっては貴重な品である……。
この独演会では、師匠の三遊亭圓橘師直傳の噺なども精力的に手掛け、落語に詳しくない私などは演題を知らない噺に出逢ふことも多かった。
さういふ時、終演後にかならずロビーへ見送りに出た小圓朝師に、“訊くは一時の恥”で演題をたずねると、小圓朝師はいつも丁寧に答へて下さった。
武士が商人にしつこく絡む筋で、「ないものはない」といふ日本語の綾に思わず唸った噺の題が『萬病圓』であることを教へていただひたのも、この時だ。
また、この独演会で初めて聴ひた『小言念仏』は、以後古ひ音源で聴ひた“名人”のものも含めて、あの時の小圓朝師以上の高座に出会っていない。
その後、私の生活環境が大きく変化したこともあり、小圓朝師の噺を楽しむ機会からは数年遠ざかってゐたが、あるとき湯島天神で独演会があることをたまたま知り、その日はすでに予定が入っていたが、それを何とかやり繰りして出かけて聴ひた「笠碁」は、改めて小圓朝師の実力を認識させるものだった。
久しぶりに見る小圓朝師は頭をきれいに剃り上げた姿で、ゆったりとした調子でじっくり聴かせ、いよいよ私好みの藝風に……、と次の機会が楽しみになったが、この時すでに体調が優れなかったやうである。
それからまたしばらくして、久しぶりに出かけた両国寄席で見た小圓朝師は、明らかに元気がなかった。
にこやかな表情はいつも通りだが、聲にまるで覇気がなく、事情を知らない私はひとり唖然とした。
そして、
「小圓朝といふことは、いつかは圓朝(えんちょう)になるんでしょ?、とよく人から言はれますが、保育園の保母さんである家内が、さきに園長(えんちょう)になりさうです」
と、何度聴ひても面白ひ持ちネタをマクラに、『未練の夫婦』を小噺なみに短く刈り込んで、すぐに引っ込んでしまった──あまりにもあっけなかったので、お囃子さんがさうと気付かず、おかしな空白が生じたほどだった。
さすがに、だうやら体調が良くないらしいことは察しがつひたが、本当にファンになった最初の噺家のそんな姿に私はショックを受け、その日のブログに「老け込むにはまだ早い!」と、その残念な気持ちをつひ強い調子でぶつけたが、まさかこの時が、小圓朝師の高座を聴ひた最後にならうとは……。
もちろん、このことで三遊亭小圓朝といふ噺家に幻滅を感じることはなく、その後もいつか復活することを信じて、両国寄席などの番組にはいつも注意してゐたが──「小圓朝復活の会」のことは知ってゐたが、だうしても都合が付かず……──、訃報といふかたちでその名前に接することにならうとは、ただただ、残念である。
六代目円楽師が定席に出演するやうになり、同門の若手も日替わりながらそれに続くやうにななった現在、いつかは小圓朝師も新宿末廣亭や浅草演芸ホールで会へる日が来るかもしれない──そんな私の“夢”は、本当に“夢”になってしまった。
“三遊亭小圓朝”といふ、圓朝ゆかりの大看板の名に恥じない本物の実力を備へた真打ちであっただけに、ぜひ他派の噺家に伍してゐる姿を見たかった。
ファンになった初めての噺家であると同時に、
芸能家の訃報に心底力が抜けた、初めての方となってしまった。
あの日、小圓朝師の「王子の狐」を聴かなければ、
おそらく私はほとんど寄席に出かけることなく、
ほとんどCDのみで落語に接してゐただらう。
生の落語の魅力を私に教へてくださった三遊亭小圓朝師に、心から感謝!
合掌
まう十年近く前、東京都北区王子の文化ホール「北とぴあ」で催されたイベントに特別ゲストとして招かれ、ご当地ネタ「王子の狐」の口演を聴ひたのが、私が小圓朝師を知った最初だ。
無駄なこと、余計なことを一切挟まず、純粋に噺を聴かせる正統派の藝風にすっかり魅せられた私は、いらい小圓朝師を目当てに、「両国寄席」通ひが始まった。
また、この頃は三鷹駅前にある武蔵野芸能劇場を会場に、「むさしの 小圓朝の会」といふ独演会も数ヶ月ごとに開催しており、こちらも毎回楽しみに出かけてゐた。
上の写真はその時の“お楽しみ抽選会”で当てた手拭ひで、いまとなっては貴重な品である……。
この独演会では、師匠の三遊亭圓橘師直傳の噺なども精力的に手掛け、落語に詳しくない私などは演題を知らない噺に出逢ふことも多かった。
さういふ時、終演後にかならずロビーへ見送りに出た小圓朝師に、“訊くは一時の恥”で演題をたずねると、小圓朝師はいつも丁寧に答へて下さった。
武士が商人にしつこく絡む筋で、「ないものはない」といふ日本語の綾に思わず唸った噺の題が『萬病圓』であることを教へていただひたのも、この時だ。
また、この独演会で初めて聴ひた『小言念仏』は、以後古ひ音源で聴ひた“名人”のものも含めて、あの時の小圓朝師以上の高座に出会っていない。
その後、私の生活環境が大きく変化したこともあり、小圓朝師の噺を楽しむ機会からは数年遠ざかってゐたが、あるとき湯島天神で独演会があることをたまたま知り、その日はすでに予定が入っていたが、それを何とかやり繰りして出かけて聴ひた「笠碁」は、改めて小圓朝師の実力を認識させるものだった。
久しぶりに見る小圓朝師は頭をきれいに剃り上げた姿で、ゆったりとした調子でじっくり聴かせ、いよいよ私好みの藝風に……、と次の機会が楽しみになったが、この時すでに体調が優れなかったやうである。
それからまたしばらくして、久しぶりに出かけた両国寄席で見た小圓朝師は、明らかに元気がなかった。
にこやかな表情はいつも通りだが、聲にまるで覇気がなく、事情を知らない私はひとり唖然とした。
そして、
「小圓朝といふことは、いつかは圓朝(えんちょう)になるんでしょ?、とよく人から言はれますが、保育園の保母さんである家内が、さきに園長(えんちょう)になりさうです」
と、何度聴ひても面白ひ持ちネタをマクラに、『未練の夫婦』を小噺なみに短く刈り込んで、すぐに引っ込んでしまった──あまりにもあっけなかったので、お囃子さんがさうと気付かず、おかしな空白が生じたほどだった。
さすがに、だうやら体調が良くないらしいことは察しがつひたが、本当にファンになった最初の噺家のそんな姿に私はショックを受け、その日のブログに「老け込むにはまだ早い!」と、その残念な気持ちをつひ強い調子でぶつけたが、まさかこの時が、小圓朝師の高座を聴ひた最後にならうとは……。
もちろん、このことで三遊亭小圓朝といふ噺家に幻滅を感じることはなく、その後もいつか復活することを信じて、両国寄席などの番組にはいつも注意してゐたが──「小圓朝復活の会」のことは知ってゐたが、だうしても都合が付かず……──、訃報といふかたちでその名前に接することにならうとは、ただただ、残念である。
六代目円楽師が定席に出演するやうになり、同門の若手も日替わりながらそれに続くやうにななった現在、いつかは小圓朝師も新宿末廣亭や浅草演芸ホールで会へる日が来るかもしれない──そんな私の“夢”は、本当に“夢”になってしまった。
“三遊亭小圓朝”といふ、圓朝ゆかりの大看板の名に恥じない本物の実力を備へた真打ちであっただけに、ぜひ他派の噺家に伍してゐる姿を見たかった。
ファンになった初めての噺家であると同時に、
芸能家の訃報に心底力が抜けた、初めての方となってしまった。
あの日、小圓朝師の「王子の狐」を聴かなければ、
おそらく私はほとんど寄席に出かけることなく、
ほとんどCDのみで落語に接してゐただらう。
生の落語の魅力を私に教へてくださった三遊亭小圓朝師に、心から感謝!
合掌