横浜市歴史博物館と横浜開港資料館で連携開催されてゐる企画展、「銭湯と横浜」を見る。
横浜開港資料館は『“ゆ”をめぐる人々』と題して、江戸時代から近現代に至る公衆浴場の歴史と、それに関わった人々のドラマに世相をからめた資料で紹介してゐる。
現在は狭いところに建物とクルマとヒトが密集してえらく窮屈な東急東横線「綱島駅」周辺だが、
もともとは100年ほど昔、地元の人が井戸から出た「赤水」を風呂に用ゐたところ持病が改善したことをきっかけに発展した、一大温泉地帯だった。
東京近郊の観光保養地にすべく、地元民と連携を図りながらその後押しをしたのが、1926年に開業した東京横浜電鉄神奈川線──つまり現在の東急東横線を経営してゐた、“強盗慶太”こと五島慶太だ。
東横線の急行といふ実質“隔駅停車”が綱島に停車するのは、
かつてこの駅が「綱島温泉駅」と云ってゐた時代の名残りである。
わたしはそれら“ゆ”をめぐる資料以上に、「被災者を救え」のコーナーに展示された、関東大震災で家屋が倒壊した直後を撮影した記録写真に、興味を覚える。
現在公開されてゐる資料の殆どが、地震後にそれらを焼き払ふ火災の様子と、焼け野原を撮影したものが大半で、倒壊した家並みの実際を写したものは、まず目にしたことがなかったからだ。
東日本大震災のときも、津波で沿岸やその奥深い場所の家屋に至るまでが流されてしまったため、地震によって倒壊した家屋そのものの正確な被害状況は、不明だといふ。
横浜歴史博物館のはうは、『ちょっと昔のお風呂屋さんへようこそ!』と題して、
昭和30~40年代の銭湯に的を絞って紹介してゐる。
コンパクトによくまとめられた会場には、廃業した横浜市内の銭湯から寄贈された番台や、
懐かしいケロリンの桶などが展示され、
銭湯のあの“匂ひ”までもが再現されてゐるやうな錯覚にとらわるる。
さう、私も銭湯には過去に三度、行ったことがある。
が、いづれも風呂釜の故障で仕方なく、といったものだった。
そのうちの一度は旅先の京都で、その晩は京都駅前の安宿に泊まったのだが、そこの婆さんに「ボイラーが壊れて風呂が使へないから」と、小銭を渡されて近所の銭湯を教へられたのだった。
その晩の宿泊客は僕ひとりで、もしかしたらたった一人のために風呂を焚くのが面倒だったからではないか、と現在(いま)ではそんな気もしてゐる。
それから数年が経って再び京都を旅行したとき、かの安宿の場所には、立派なマンションが建ってゐた。
ちなみに、銭湯の経営者は北陸方面の出身者が多く、当時は需要の多かった銭湯で財を成し、神社に鳥居や石塔を寄進する者も多かったといふ。
昭和初期、やはり銭湯を開くことを夢見て山形県から上京し、親類が経営する両国の銭湯で修業を重ねるうち、その体格の良さから角界にスカウトされ、つひには昭和16年から12年の長きに亘って第36代横綱として活躍した、「羽黒山」といふ力士がゐた。
一方では、壮年期に仕事で上京し、定年後は故郷に引っ込んで、
「東京はヒトの住むところではない」
と、東京者の私に言ってのけた北陸人もいれば、
今は昔、故郷(くに)はどこだか知らないが映画俳優を夢見て上京し、撮影所ちかくのお好み焼き屋でアルバイトをしてゐるうちに、気が付けばそこの店長に納まってゐた者など、
東京は実に多種多様な人生の交錯する街である。
しかし私は、『東京マジック』などと云ふものは信じない。
どこに住んでいやうと、成功も失敗もすべては己れの心の在りやうひとつであることは、
わたし自身がいちばんよく知ってゐるつもりだからだ。
横浜開港資料館は『“ゆ”をめぐる人々』と題して、江戸時代から近現代に至る公衆浴場の歴史と、それに関わった人々のドラマに世相をからめた資料で紹介してゐる。
現在は狭いところに建物とクルマとヒトが密集してえらく窮屈な東急東横線「綱島駅」周辺だが、
もともとは100年ほど昔、地元の人が井戸から出た「赤水」を風呂に用ゐたところ持病が改善したことをきっかけに発展した、一大温泉地帯だった。
東京近郊の観光保養地にすべく、地元民と連携を図りながらその後押しをしたのが、1926年に開業した東京横浜電鉄神奈川線──つまり現在の東急東横線を経営してゐた、“強盗慶太”こと五島慶太だ。
東横線の急行といふ実質“隔駅停車”が綱島に停車するのは、
かつてこの駅が「綱島温泉駅」と云ってゐた時代の名残りである。
わたしはそれら“ゆ”をめぐる資料以上に、「被災者を救え」のコーナーに展示された、関東大震災で家屋が倒壊した直後を撮影した記録写真に、興味を覚える。
現在公開されてゐる資料の殆どが、地震後にそれらを焼き払ふ火災の様子と、焼け野原を撮影したものが大半で、倒壊した家並みの実際を写したものは、まず目にしたことがなかったからだ。
東日本大震災のときも、津波で沿岸やその奥深い場所の家屋に至るまでが流されてしまったため、地震によって倒壊した家屋そのものの正確な被害状況は、不明だといふ。
横浜歴史博物館のはうは、『ちょっと昔のお風呂屋さんへようこそ!』と題して、
昭和30~40年代の銭湯に的を絞って紹介してゐる。
コンパクトによくまとめられた会場には、廃業した横浜市内の銭湯から寄贈された番台や、
懐かしいケロリンの桶などが展示され、
銭湯のあの“匂ひ”までもが再現されてゐるやうな錯覚にとらわるる。
さう、私も銭湯には過去に三度、行ったことがある。
が、いづれも風呂釜の故障で仕方なく、といったものだった。
そのうちの一度は旅先の京都で、その晩は京都駅前の安宿に泊まったのだが、そこの婆さんに「ボイラーが壊れて風呂が使へないから」と、小銭を渡されて近所の銭湯を教へられたのだった。
その晩の宿泊客は僕ひとりで、もしかしたらたった一人のために風呂を焚くのが面倒だったからではないか、と現在(いま)ではそんな気もしてゐる。
それから数年が経って再び京都を旅行したとき、かの安宿の場所には、立派なマンションが建ってゐた。
ちなみに、銭湯の経営者は北陸方面の出身者が多く、当時は需要の多かった銭湯で財を成し、神社に鳥居や石塔を寄進する者も多かったといふ。
昭和初期、やはり銭湯を開くことを夢見て山形県から上京し、親類が経営する両国の銭湯で修業を重ねるうち、その体格の良さから角界にスカウトされ、つひには昭和16年から12年の長きに亘って第36代横綱として活躍した、「羽黒山」といふ力士がゐた。
一方では、壮年期に仕事で上京し、定年後は故郷に引っ込んで、
「東京はヒトの住むところではない」
と、東京者の私に言ってのけた北陸人もいれば、
今は昔、故郷(くに)はどこだか知らないが映画俳優を夢見て上京し、撮影所ちかくのお好み焼き屋でアルバイトをしてゐるうちに、気が付けばそこの店長に納まってゐた者など、
東京は実に多種多様な人生の交錯する街である。
しかし私は、『東京マジック』などと云ふものは信じない。
どこに住んでいやうと、成功も失敗もすべては己れの心の在りやうひとつであることは、
わたし自身がいちばんよく知ってゐるつもりだからだ。