師匠の月命日にあたる11月5日は、「津波防災の日」であることを、初めて知る。
また祭禮で神輿を担ひで地域を練り歩くのは、有事には皆で協力して避難物資を運ぶための訓練も兼ねてゐたのだと云ふ。
それだけ流れが落ち着きを取り戻したといふことだらう。
新元号を嘲笑ふかのやうな今年の災害續きを思ふと、浮世に横溢してゐる『○月○日は○○の日』のなかで、これは格別の意味があると私は考へる。
海に面したその地域の神社が、古社ほど山などの高ひ場所にあるのは、そこが津波からの避難場所だからであり、
また祭禮で神輿を担ひで地域を練り歩くのは、有事には皆で協力して避難物資を運ぶための訓練も兼ねてゐたのだと云ふ。
そして皆で神輿を担ひで地域を巡行し宮入りするのは、神社といふ避難所への経路の確認と、その周知徹底のためでもあったさうだ。
現代のやうに事前情報の殆ど無いなか、天候の変化を感じ取ることで異変を察知し、自ら身を守って生き延びてきた先人たちの危機意識の高さと、その知恵の深さを私は大いに學習する。
いつであったか、都内某所で某企業が防災避難訓練を実施したらしく、そこの雇われ集團がいかにも面倒臭さうにダラダラと歩道を占領して、却って他の歩行者の迷惑になってゐる光景を見たことがある。
先導役からして相方と談笑し、集團の後方にいたっては、スマホに熱中して皆からはぐれかけてゐることにすら気付かない有様。
しかし、かういふ輩が災害時にちゃっかりと生き残るのが、浮世の現実である……!
少子高齢化で人が少なくなり、祭禮の執行が覚束なくなった結果、神輿や山車の巡行をやめてしまった町は多い。
それは我が身をおのれの手で守るための、先人たちからの知恵や文化の消滅でもある。
かうした内部崩壊は、危機を乗り越えるための最大の“武器”を自ら棄てて、丸腰になるやうなものだ。
度重なる近年の被災状況には、その結果も含まれてゐるやうに思へる。
なんでも他人(ひと)頼み、なんでも他人(ひと)のせいにしたがる當世人に、
危機から助かる道などあらうか──?
私は今日、先人たちから命が助かる術、“傅統文化”を授けられた気がした。
あの性悪台風では増水の危険を知らしめた川で、鴨の姿を見る。
それだけ流れが落ち着きを取り戻したといふことだらう。
災害と、平穏と。
さうした繰り返しの自然と、
人間はもっと真剣に付き合はなければならないと、
改めて反省させらるる。