すぐ先で国道に合流すると、目川沿いのなだらかな下り坂に。
約20分後、「観音隧道西」信号手前で一瞬だけ国道から分岐した左手には、使われなくなって久しい「長垣吊橋」が、いかにも廃墟らしい風情で見る人の足を思わず止めます(上段写真)。
かつて、地元のぶどう農家の人々が利用していたようです。
廃止された吊橋からさらに2㎞ほど行くと、次の勝沼宿への入口である「柏尾橋」に差し掛かります。
現在は直進していますが、これは大正時代以降のルートで、それまでの橋はやや上流に架かっており、橋を渡るにはそちらへ少々迂回しなくてはならなかったのは、宿場の枡形と同じく防衛上の理由からでしょうか。
中段写真の、橋の手前から川に沿って右方向へ伸びている白い石畳の下り坂が、旧道。
昔の橋の場所には、現在も土台の石垣が両岸に遺されています。
またこの辺りは、明治元年(1868年)3月6日に旧幕軍と官軍が戦った戊辰戦争の古戦場でもあり、かの近藤勇も旧幕軍の一員として参戦しましたが、わずか一日で官軍の勝利によって幕を閉じたとか。
現在の橋の袂には、近藤勇の真新しい石像が建っています。
約20分後、「観音隧道西」信号手前で一瞬だけ国道から分岐した左手には、使われなくなって久しい「長垣吊橋」が、いかにも廃墟らしい風情で見る人の足を思わず止めます(上段写真)。
かつて、地元のぶどう農家の人々が利用していたようです。
廃止された吊橋からさらに2㎞ほど行くと、次の勝沼宿への入口である「柏尾橋」に差し掛かります。
現在は直進していますが、これは大正時代以降のルートで、それまでの橋はやや上流に架かっており、橋を渡るにはそちらへ少々迂回しなくてはならなかったのは、宿場の枡形と同じく防衛上の理由からでしょうか。
中段写真の、橋の手前から川に沿って右方向へ伸びている白い石畳の下り坂が、旧道。
昔の橋の場所には、現在も土台の石垣が両岸に遺されています。
またこの辺りは、明治元年(1868年)3月6日に旧幕軍と官軍が戦った戊辰戦争の古戦場でもあり、かの近藤勇も旧幕軍の一員として参戦しましたが、わずか一日で官軍の勝利によって幕を閉じたとか。
現在の橋の袂には、近藤勇の真新しい石像が建っています。