僕は一度ホテルに戻ると、とりあえずスケッチブックはバッグに入れて、姫哭山へ向かった。
旧朝妻宿へは、あの山城跡を越えて行くのが、一番近い。
昨日に続いて二度目ということもあって、例の獣道も大して苦にならず、頂上に着いた。
“山の天気は変わりやすい”の言葉どおり、葛原市街の晴天に対して、山頂は灰色の重たい雲がかかっていた。
そして強めの冷たい風が吹いて、昨日スケッチした松の枝を揺らしていた。
どうも、いやな感じの風だ。
僕は煽られるまま、向こうへ下ろうとした時だった。
背後でヒューッと、鋭い口笛のような音がして、僕は思わず振り返った。
が、そこには雑草ばかりの風景があるのみ。
あれかな……?
僕はあの松を見た。
風に揉まれて波打つように揺れている枝が、風を切る音なのか……?
ところが、次第にこの風音に呼応するように、
ヒューッ!
ヒョーッ!
と、鋭い不協和音があちこちから響いて、僕は「うわっ……」とたじろいだ。
しかし、その高い調子の風音が、若い女性の泣き声に聞こえなくもないことに、僕は気が付いた。
もしやこれが、“姫哭山”の名前の由来か……?
しかし、その推測を吟味する余裕のないほど、風は次第に強まって、おまけにポツリポツリと、雨まで降りだしてきた。
こんな逃げ場のない場所で、立ち往生などごめんだ。
僕は足許を注意しながら、逃足に山を下った。
そしてなんとか朝妻八幡宮の境内までたどり着くと、そこは葛原と同じ晴天下、
「……」
と、僕は呆れて空を見上げたものだった。
僕は気を取り直して、例のプレハブ社殿に歩み寄った。
昨日は熊橋老人に促されるままここを出たので、参拝をしていない。
八年前の全焼の後、いかにも間に合わせでここに据えたものらしく、いまでは屋根や外壁が、すっかり痛んでいる。
僕はお賽銭を出そうと、ポケットの財布に手をかけた時だった。
とつぜん社殿の格子戸が開いて、中から人が出てきたのだ。
僕はぎょっとして固まった。
現れたのは、箒と塵取りを手にした、下鶴昌之だった。
下鶴氏も、「あっ」と驚いて立ち止まったが、その理由はまた別だった。
「おや近江さん……、東京へ帰らはった、と聞きましたが……」
話しがもう伝わっているのか―
さすが田舎は情報の伝播が早い、面倒なことになるかな、と思いながら、
「まあ……」
と僕は曖昧に返事をすると、下鶴昌之は真顔で、意外なことを言った。
「いや、それが賢明ですわ」
「え?」
「朝妻歌舞伎には関わらん方がよろしい、言うことです」
下鶴昌之は格子戸を閉めて錠をかけると、打って変わった穏やかな表情で、
「週に一度、こうして社殿と境内とを、掃除しているんですわ。……せやないと、ここは荒れ放題になってまうによって」
それまで呆気にとられていた僕は、はっと我に返って、訊いた。
「神主さんは、おられないのですか?」
すなわち、金澤あかりの母方の家族は……。
「ここが全焼してからは、無人になってます。現在(いま)は、遠縁にあたる京都の宮司さんが、とりあえず掛け持ちで管理してはりますが……」
遠方で手が回らないので、自分たち氏子が管理を代行しているのです、と下鶴昌之は菷と塵取りを示してみせた。
続
旧朝妻宿へは、あの山城跡を越えて行くのが、一番近い。
昨日に続いて二度目ということもあって、例の獣道も大して苦にならず、頂上に着いた。
“山の天気は変わりやすい”の言葉どおり、葛原市街の晴天に対して、山頂は灰色の重たい雲がかかっていた。
そして強めの冷たい風が吹いて、昨日スケッチした松の枝を揺らしていた。
どうも、いやな感じの風だ。
僕は煽られるまま、向こうへ下ろうとした時だった。
背後でヒューッと、鋭い口笛のような音がして、僕は思わず振り返った。
が、そこには雑草ばかりの風景があるのみ。
あれかな……?
僕はあの松を見た。
風に揉まれて波打つように揺れている枝が、風を切る音なのか……?
ところが、次第にこの風音に呼応するように、
ヒューッ!
ヒョーッ!
と、鋭い不協和音があちこちから響いて、僕は「うわっ……」とたじろいだ。
しかし、その高い調子の風音が、若い女性の泣き声に聞こえなくもないことに、僕は気が付いた。
もしやこれが、“姫哭山”の名前の由来か……?
しかし、その推測を吟味する余裕のないほど、風は次第に強まって、おまけにポツリポツリと、雨まで降りだしてきた。
こんな逃げ場のない場所で、立ち往生などごめんだ。
僕は足許を注意しながら、逃足に山を下った。
そしてなんとか朝妻八幡宮の境内までたどり着くと、そこは葛原と同じ晴天下、
「……」
と、僕は呆れて空を見上げたものだった。
僕は気を取り直して、例のプレハブ社殿に歩み寄った。
昨日は熊橋老人に促されるままここを出たので、参拝をしていない。
八年前の全焼の後、いかにも間に合わせでここに据えたものらしく、いまでは屋根や外壁が、すっかり痛んでいる。
僕はお賽銭を出そうと、ポケットの財布に手をかけた時だった。
とつぜん社殿の格子戸が開いて、中から人が出てきたのだ。
僕はぎょっとして固まった。
現れたのは、箒と塵取りを手にした、下鶴昌之だった。
下鶴氏も、「あっ」と驚いて立ち止まったが、その理由はまた別だった。
「おや近江さん……、東京へ帰らはった、と聞きましたが……」
話しがもう伝わっているのか―
さすが田舎は情報の伝播が早い、面倒なことになるかな、と思いながら、
「まあ……」
と僕は曖昧に返事をすると、下鶴昌之は真顔で、意外なことを言った。
「いや、それが賢明ですわ」
「え?」
「朝妻歌舞伎には関わらん方がよろしい、言うことです」
下鶴昌之は格子戸を閉めて錠をかけると、打って変わった穏やかな表情で、
「週に一度、こうして社殿と境内とを、掃除しているんですわ。……せやないと、ここは荒れ放題になってまうによって」
それまで呆気にとられていた僕は、はっと我に返って、訊いた。
「神主さんは、おられないのですか?」
すなわち、金澤あかりの母方の家族は……。
「ここが全焼してからは、無人になってます。現在(いま)は、遠縁にあたる京都の宮司さんが、とりあえず掛け持ちで管理してはりますが……」
遠方で手が回らないので、自分たち氏子が管理を代行しているのです、と下鶴昌之は菷と塵取りを示してみせた。
続