四谷見附より国道20号線の現道を歩くこと約1㎞、かつては宿場の大木戸があった四谷四丁目交差点を過ぎて、甲州道中最初の宿場、内藤新宿に(上段写真)。
東京都庁の所在地、また歌舞伎町などの歓楽街も抱する東京副都心“新宿”のルーツは、現在の四谷四丁目交差点から新宿三丁目交差点“新宿追分”までの約1㎞に存在していた、この宿場町にあります。
ここは甲州道中の開通当初から、太宗寺(現・新宿二丁目)などの門前町“内藤宿”としてかなり賑わっていましたが、まだ公式の宿場ではなく、高井戸宿までの“間の宿(公式の宿場ではない休憩所)”という扱いでした。
しかし、日本橋から高井戸宿までは4里(16㎞)と距離が長いため、元禄11年(1698年)に浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後に喜六と改名)らが宿場設置を幕府に申請、認可した幕府は内藤家に領地の一部を返上させて高松らに与え、わずか1ヶ月程で完成させました。
しかしこの内藤新宿、それから20年後の亨保3年(1718年)に、内藤大八なる四谷在の旗本が喧嘩騒ぎを起こし、兄の内藤新五衛門が弟を切腹させると同時に幕府へこの一件を訴え出たため、廃止の憂き目を見ることになりました。
二代目市川左團次によって初演された岡本綺堂の戯曲「新宿夜話」の元ネタとなったエピソードですが、実際のところはこの頃は宿場町に昇格したものの旅人の利用がまだ少なく、そのために飯盛女(下級遊女)たちが強引な客引きを行なうなど、度を過ぎた行為がかなり目に余ったために廃止された、とも云われています。
歓楽街新宿におけるこの問題、どうやら今に始まったことでないようです…。
内藤新宿が宿場として再開されたのはそれから54年後、遊山客が多く通行するようになった明和9年(1722年)に、五代目の高松喜六らの請願によるもの。
現在、伊勢丹や丸井シティがある新宿三丁目交差点は“新宿追分”と云われ、
甲州道中の“裏街道”であった「青梅道(青梅街道)」の起点でもありました。
追分を直進するのが青梅街道、左折するのが甲州道中で、すぐ先の新宿四丁目交差点で今度は右折するのは、宿場のお約束“桝形”の名残りです。
東京都庁の所在地、また歌舞伎町などの歓楽街も抱する東京副都心“新宿”のルーツは、現在の四谷四丁目交差点から新宿三丁目交差点“新宿追分”までの約1㎞に存在していた、この宿場町にあります。
ここは甲州道中の開通当初から、太宗寺(現・新宿二丁目)などの門前町“内藤宿”としてかなり賑わっていましたが、まだ公式の宿場ではなく、高井戸宿までの“間の宿(公式の宿場ではない休憩所)”という扱いでした。
しかし、日本橋から高井戸宿までは4里(16㎞)と距離が長いため、元禄11年(1698年)に浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後に喜六と改名)らが宿場設置を幕府に申請、認可した幕府は内藤家に領地の一部を返上させて高松らに与え、わずか1ヶ月程で完成させました。
しかしこの内藤新宿、それから20年後の亨保3年(1718年)に、内藤大八なる四谷在の旗本が喧嘩騒ぎを起こし、兄の内藤新五衛門が弟を切腹させると同時に幕府へこの一件を訴え出たため、廃止の憂き目を見ることになりました。
二代目市川左團次によって初演された岡本綺堂の戯曲「新宿夜話」の元ネタとなったエピソードですが、実際のところはこの頃は宿場町に昇格したものの旅人の利用がまだ少なく、そのために飯盛女(下級遊女)たちが強引な客引きを行なうなど、度を過ぎた行為がかなり目に余ったために廃止された、とも云われています。
歓楽街新宿におけるこの問題、どうやら今に始まったことでないようです…。
内藤新宿が宿場として再開されたのはそれから54年後、遊山客が多く通行するようになった明和9年(1722年)に、五代目の高松喜六らの請願によるもの。
現在、伊勢丹や丸井シティがある新宿三丁目交差点は“新宿追分”と云われ、
甲州道中の“裏街道”であった「青梅道(青梅街道)」の起点でもありました。
追分を直進するのが青梅街道、左折するのが甲州道中で、すぐ先の新宿四丁目交差点で今度は右折するのは、宿場のお約束“桝形”の名残りです。